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2012年5月

2012年5月21日 (月)

ベラルーシ共和国国家報告書 その32

ここ5年間、ベラルーシ共和国人口を対象にした被爆による病気全般の罹患率の増加を見てみますと、
年間平均増加率は2パーセントと出ています。一方、際立った初期罹患率の増加は見られておりません。
(成長率1パーセント以下) その結果、全体及び初期罹患率の割合は2004年の2.4パーセントから
2009年の2.6パーセントに増加しました。これは、監視下集団の加齢と共に歩んだ慢性病理学の精力的な
蓄積から証明されたと言えましょう。ここ5年間の初期罹患率の構造はベラルーシ共和国人口全体の構造と
同一でした。怪我と中毒(8.5パーセント)及び、骨と筋肉組織の病気(6.2パーセント)が呼吸器疾患に続いた
最大比重を占めました。

1.4 居住者の避難と再定住について

事故後初日からベラルーシ政府は放射能状況の測定評価と国民防御を目的とする活動を組織し、
指揮してきました。
1986年4月-5月のチェルノブイル原発事故後の予防対策と除線、浄化はソビエト連邦政府閣僚会議、
及びソビエト連邦保健所によって導入されました。最初は被爆線量が25mR/h(25ミリ レントゲン/時間)を
対象に指示が行きました。(領域はチェルノブイル原発からおおよそ半径10キロ以内を示す)
実際のところ、このゾーンにおけるベラルーシ人の退避は5月2日から開始しました。
(まずは子供と妊娠中の女性から)それから5mR/h(5ミリ レントゲン/時間)に減らすことが決まりました。
こちらは半径30キロ領域に相当します。全体を見ると初期段階においては、50の村が(11,035人)
5月2日にBragin, Khoiniki, Narovlya地域から避難しました。

7月2日?9日の間には更に28町村が移住しました。(6,017名)そして8月末には29町村(7,327名)が移住しています。つまり1986年には、107の最も影響を受けた地域、24,700名もの住民が原発事故の起きたベラルーシ地域からは避難したこととなります。

1986年7月半ばになると何千もの人々を新たな居住地へ避難させる課題が浮上してきました。
この件に関しては、1986年6月11日、ベラルーシ中央共産党委員会と閣僚会議が解決策第172条「チェルノブイル原発地域から避難したゴメルオーブラスチ住民に対する雇用配置及び住居と社会設備提供」を採択しました。
そして1986年6月の間にオーブラスチ党委員会とオーブラスチ実行委員会は任務を確実に行うよう指命が下ります;

ー チェルノブイル原発事故危険地域から避難した住民への暫定的住居、食料、医療と消費者サービス等の提供
ー 避難住民への継続的な雇用配置と、集団農場における専門資格証明 - 施設や組織その他ソビエト農場やその他農業経営も含む。

時にはこれら労働者や組織に対して、以前の雇用先での平均収入維持の為には再研修の課題が議論されねばならない場面も出てきました。

遅くとも1986年10月にはベラルーシ当局地方建設省管轄の下、上記の人々に各部門の住棟を提供しました。
そして避難地域として選ばれたゴメリオーブラスチ村落に住棟、文化施設や社会設備、店に生活施設の設営が着手されました。全体で3,970の小家屋が建設され、金額9千万ルーブルが割り当てられました。ソビエト連邦からベラルーシ共和国を通して、ゴメリオーブラスチ委員会にプレハブ木造家屋が渡り18万km2の面積に建設されました。
- 面積7万km2相当から収集した国内木造部品から成る。

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