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2009年2月

2009年2月20日 (金)

ホスピス・クーデター

 八ヶ月の留学期間はあっという間に過ぎ去り、

帰国した私には再び気の重い授業が待っていました。

中でも最悪だったのが、最終学年でのホスピス実習でした。

 私の目指す和合医療には、

当然ターミナルケアの領域も含まれてきます。

臨床の最前線で学ぶべき事はいろいろあったはずですが、

残念なことに、実体は全く淋しいものでした。

 そのホスピスは、ある著名な医師の息が掛かっている施設です。

医療を越え、人間の生き方や幸せのあり方についての著作も多い人格者で

あるその先生に、「あなたは何を学んだのか」と問いかけたいような人物が、

院長だったのです。

そのビジネスライクな冷たさには、

どうしても拭いきれない違和感、もっと言えば嫌悪感がありました。

 末期ガンであと一月もつかどうか、という男性が入院してきました。

付き添っていたのは愛人だったようです。

そこへ、別居している妻が「元の病院に戻したい」と申し入れてきました。

その方が男性のためによいと思ったのではなく、

夫の人生が幕を下ろす時に、

愛人にイニシャチブを取られたくないというのが本音に見えました。

二人の女性のプライドのための悲しい争いが始まります。

 そうした場面での対処方法にこそ、

ホスピスならでは配慮が求められるべきところです。

担当医やナースが苦慮しているという報告を聞き、院長がやってきました。

「あんた達の争いごとは迷惑なんだ。

私は大事な学会の準備で忙しい。

そんなことに私やスタッフの貴重な時間を取られるわけにはいかんのでね」

 私は自分の耳を疑いました。

「生き様は死に様」とはよく言われる言葉ですが、

ホスピスとは、患者さんの「生き様・死に様」の物語を綴る場所でもあるはずです。

医療とは異なる問題とは言え、

臨機応変に対応できる力強い人間力こそが、

ホスピスのスタッフに最も求められる資質であるはずです。

 冷たい院長の態度は、患者が亡くなるまで変わりませんでした。

院長がそんな有り様ですから、他の医師の志も似たり寄ったりです。

スピリチュアリティの問題について話し合おうと思っても、

「あれはWHOの理事国会議で勝手に提唱してきている文言だから。

日本はこの採択で賛成意見も反対意見も出さずに棄権してるだろう」と、

にべもありません。

 たまりかねた私は、同じグループとしてラウンドしていた同級生に、

つい(いや、確信犯かも)余計なことを口走ってしまいました。

「ここはホスピスの本当の姿じゃないぞ。

こんなやり方がホスピスとして正しいと思ったら将来を誤る。

サボったほうがマシだ」

 国家試験の準備にも忙しい時期だけに、私なりに本気の助言でした。

そして、参加した十人のピュアな学生全員が、

全実習の三分の一を欠席したのです。もっとも、

私の義憤に共感してくれたのと、

サボタージュのための甘い誘惑に負けたのと、

どちらが勝っていたのかは微妙なところかもしれませんが。

 三ヶ月後。お裁きが下りました。留年を告げる通知です。

 神聖なるホスピス実習の受講態度が不真面目だということで、

単位不履行。ギリギリにしか単位申請していなかった私は、

自動的に留年という訳です。

他にも五人の学生が道連れの瀬戸際に立たされました。

 幸い、瀬戸際組の学生の父兄が頑張ってくれたお陰で、

問答無用の留年ではなく、教授会にかけられることになりました。

教授会での決定事項は、

「卒業試験前にボランティア活動を最低二十時間こなし、

その上で卒業試験が特別優秀な場合にのみ卒業させる」というものでした。

経済的余裕の全くない私にとっての留年は、イコール退学です。

四年間の努力も水疱に帰してしまいかねない状態ではありましたが、

何とか首の皮一枚残すことができました。

 ほどなく、学生主任の教授から呼び出しを受けました。

医学教育革命という特命を総長から受け、

東大医学部から引き抜かれてきたスーパーエリート教授です。

「何とか教授会でチャンスを与えることにしたから、

最後まで頑張りなさい」という激励の言葉をいただくものだと思い込んで、

私は教授室を訪ねました。そこでいきなり見えないまわし蹴りをテンプルに

受けるとも知らずに。

「今回のホスピス事件の首謀者が君だということは、

調書を取ってはっきりした。

君のようにいい年をして医学の神聖な世界を馬鹿にしたような奴は、

私の職務権限において

責任をもって留年させる。以上だ。帰りなさい」

 テンプル(こめかみ)に受けた蹴りでダウンした場合には、

即座に立ち上がり、次のダウンを喫しないよう、

イチかバチかでがむしゃらにパンチを振り回すところですが…

今回の状況は、最高責任者が自分の役職にかけて落とすと言っている訳で、

どんなパンチも虚しく空を切ることは必至。

あのホスピスのどこに「神聖な世界」があるのかなどと嘯く気力もなく、

白いタオルを投げる気分です。

 留年↓退学↓医師免許ギブアップ。

そんな言葉が頭の中をぐるぐる回り、

九州歯科大学一年生以来最悪の落ち込み状態に突入しました。

2009年2月18日 (水)

おそるべし、マサイの戦士

 せっかくヨーロッパを回るんだから、

ついでにアフリカまで行ってやれ。

というわけで、私はナイロビ大にも足を伸ばしました。

エイズ患者が溢れる中、現地ではどんな対応がなされているのか見聞したかったのと、

マサイのシャーマンに会いたかったからです。

 マサイ族のシャーマン医療は、ライポン家が世襲制で継承している伝承療法です。

私はラッキーにも、秘伝といわれている

マサイの実際の医療に触れるチャンスに恵まれました。

マコというライポン家の(自称)名医から、

「ここだけの話しだぞ」と言われ続けながら、

数種類の薬草や治療法方を教えてもらったのです。

 ライポン家に伝わる治療方法の基本は、除霊です。

病気の原因となっている霊障を見分け、神の意志を下ろすのだとか。

その治療法、さしもの私にもかなり刺激的なものばかり。

ヤギの首を刎ねて、その生き血を浴びたり、ミルクと混ぜて飲ませたり。

そのヤギは家畜(生け贄)ではなく、医療用として飼育されているとのこと。

つまり、シャーマンの治療はおまじないなどではなく、

医療行為であることが認められている証です。

 欧米人の医師がいる診療施設でも、槍を使って瀉血するなど、

積極的に伝承医療を取り入れているのには驚かされました。

 マコとの会話で、忘れられないひと言があります。

「西洋医療家はいないのですか?」

「アメリカから二人来ているよ、

彼らはサファリで野獣に襲われた時の外傷の治療を担当している。

まあ、外傷患者対応のおまけの医療だよ」

 マサイ族にとっては、ライポン家のシャーマン医療が正統医療であり、

西洋医療が補完医療なのです。実際、西洋医療が主流になっている割合は

全世界を見渡すと三割程度という数字を聞いたことがあります。

この三割という数字、英語を話す人口と同じなのが興味深いところです。

 よく知られているように、マサイは一夫多妻。

金持ちだと十人もの妻を持つのも珍しくないそうですから、

精力剤が発達したのも当然の成り行きでしょう。

これまで、あらゆる医療行為やサプリメントなどは、

まず自分で試してきましたが、さすがに本場の精力剤は初体験。

早速、味見をさせてもらうことに。

 これがとんでもないことになったのです。

コレラを疑うほどの激烈な腹痛と下痢。慣れない土地だったので、

あるいは水に原因があったのかもしれませんが、

この精力剤が引き金となったのは明らかでした。

速攻でホテルに戻り、水だけ飲んでベッドに倒れ込みました。

 コレラ様下痢症状は一向に軽快せず、

一時は「陰山泰成、ナイロビに死す」かと覚悟したほどの脱水症状が続きました。

シャーマンに会う前に見学にいったナイロビ大学の付属病院は、

また別な病気で死ぬ目に会いそうな施設だったので、

救急でかかる気にもなれません。どうせ死ぬなら、

自分らしく何もせずに、自然なスタイルを選ぼうと腹を括りました。

 断食すること三日目。何とかかふらふらながら歩けるまで回復したため、

これを潮に英国に戻ることを決意。帰りの飛行機でも、

座席とトイレを何往復したことやら…。

「シートに穴空けたげようか?」

 CAのにやにや笑いが、今でも脳裏に焼き付いています。

2009年2月17日 (火)

「先の先」イン・ロンドン

 五年生になると、米国または英国への八ヶ月間の海外留学の機会が与えられます。

私も選抜試験に挑戦することにしました。

(あんな講義を聞かされるくらいだったら、

英語でガンガン言われる方がまだマシだ)

 いささか不遜な理由ではありますが、

もちろん、授業からの逃避だけではありません。

ロンドンはホメオパシーやフラワーエッセンスのメッカです。

また、ドイツのEAVで度肝を抜かれたように、

ヨーロッパには将来の医療活動に取り入れられるネタも豊富にあると踏んだからでした。

おまけに宿代はかからないし、月額八万円の給付もあります。

 四名の枠に対して、応募者は三十名。しかも大半は帰国子女。

会話の運用能力では圧倒

的に不利でしたが、こっちには数多くの面接を潜り抜けてきた経験があります。

そう自分

に言い聞かせてプレゼンテーションに臨みましたが、

なぜかプレゼンは日本語でOKでした。

「私は東洋医学や空手にも長く親しんで来ましたので、

日本の文化や技術を土産にすることができます。

これらを通じて友人を作り、日本にもたくさん来てほしいのです。

また、国際的な医療ボランティアのためのコミュニケーション術も

学んできたいと思っています。

留学先にとっても、残っている学生にとっても、

メリットのある留学生になれるものと自負しております」と力説。

無事、口八丁のみで留学の切符を手に入れることができました。

「意気込みは半端じゃないから、

年齢に関係なく留学に行かせてもいいんじゃないの?」との

面接官の温情で見事に留学の夢がかなったのです。

 留学先はロンドン大学インペリアルカレッジ。

大学で基礎的な臨床科目を三つ取る以外は、

好きなところで学ぶことができるシステムです。

折を見ては、王立ロンドンホメオパシックホスピタルをはじめ、

ヨーロッパ各地の民間医療家の仕事を見て回りました。

 英国王室が設立したロンドンホメオパシックホスピタルは、

民間療法だけで独立している病院で、百五十年の歴史があります。

明治維新でそれまでの医療体系が全否定されなければ、

日本にも同じような病院があったかもしれないと思うと、

ますます熱い思いがこみ上げます。

(こんな施設を日本にも普及していくために、俺は医者になるんだ)

 ところで、肝心の大学での授業は、

言葉のハードルが高くてなかなかついて行けません。

次第に危機感が募り、英会話のレッスンも増やしてみたのですが、

効果はイマイチ。

(やっぱりネイティブの友達を作らないとな)

 ヨーロッパでは日本女性はモテるのですが、野郎の方は全くパッとしません。

東洋人男性がプライドの高いロンドナーから話しかけてもらえる

チャンスは滅多にないのです。

滅多にないチャンスをモノにするにはどうすればいいのか。

会話をすることにストレスを感じない環境はどうしたら作れるのか。

(そうだ、空手道場を探してみよう)

 かくして私は、ロンドン大学の空手部皮を切りに、

空手道場のハシコを始めました。

最終的には合計四箇所の道場で、週一回ずつ稽古を見るようになったのです。

空手道場では当然、日本文化は敬愛されています。

黒帯の日本人というだけで立派なステイタスですから、

英語が上手くないと見るや、キャンパスとは違い、

向こうからゆっくり丁寧に話しかけてくれるのです。

まずは空手に関連する英語から耳が慣れました。

そして、稽古の後は、パブでの空手談義。

 この作戦は大成功でした。英語力は未だにたいしたことはないのですが、

ロンドンに行く前よりは飛躍的に伸びまし。

九州歯科大学空手道部時代の試練がここでも生きたのです。

人生に無駄はありません。

 ヨーロッパで最も多くの競技人口を誇っているのは、松涛館空手です。

大学空手の名門中の名門ですが、

T大学の空手道部で死傷事件が発生し、廃部になってしまた時、

斉にOBがヨーロッパに進出して言ったと聞きます。

私が段位をとったときの中山最高師範は、

今でも大変尊敬されており、

その師匠である船越先生とともに写真が道場に飾られていました。

写真の横には神棚も飾ってあり、

さらに「空手道道場訓」まで張り出してあるではありませんか。

 ロンドン大学空手部での初めての稽古の時に、

最も驚き、かつ嬉しかったのが、

この道場訓(もちろん日本語)を全員で唱和していた光景でした。

「ヒトツ、ジンカクケイセイニツトメルコト」
「ヒトツ、マコトノミチヲマモルコト」
「ヒトツ、ドリョクノセイシンヲヤシナウコト」
「ヒトツ、レイギヲオモンジルコト」
「ヒトツ、ケッキノユウ(血気の勇)をイマシメルコト」。
(泣かせるじゃないか。よしっ、リピート・アフター・ミーだ)

 実際に、ヨーロッパの空手家は礼儀正しく、律儀でした。

T大学空手部が創った『押忍』の世界。一昔前の正統な空手道のしきたりがヨーロッパに伝わり、それが生き続けているのです。
 この現象、どこかでみたことあるような…。

英国と言えば「ウインブルドン現象」の本家ではありますが、

それは、諸外国の選手層が厚くなっただけで、

英国のテニスそのものが下火になったわけではありません。

 つらつら考えてみるに、

日本の医療界と同じ構図が見えてきます。

明治以後、特に戦後、西欧文明を追従するあまり、

生活習慣から食生活まで、日本人は劇的な変化を遂げました。

便利な生活を手に入れた反面、自然から離れる方向性に暴走し、

従来は存在しなかったメタボリックシンドロームや

生活習慣病の増加を招いています。

極端な西洋哲学をベースにした現代医療への反省から、

西欧では東洋医療が再評価され、

哲学ベースから東洋を理解した人やシステムが増えつつあるのです。

本来日本人が牽引すべき東洋医療においてさえ、

西欧に遅れをとっているのは否めません。

 空手も医療も、今一度日本人がその基礎を固めて意気込みを示し、

世界でリーダーシップを取らねばなるまいぞ。

改めて大和魂に火がついたのものです。


 黒帯カゲヤマの名は瞬く間にロンドン中に轟きわたることとなり、…

というのは嘘ですが、黒帯が役に立ったこんなエピソードもありました。

 オックスフォード対ケンブリッジという、

言わば空手の早慶戦のような試合

(ただし、戦績は圧倒的にケンブリッジが優位)で、

オックスフォード大のコーチ役が回ってきたのです。

たまたま当日、審判に欠員が生じたために、

オックスフォードのコーチが審判団に加わることになり、

その穴埋めに私が入ることとなったのです。

「腕組みして座っといてくれればいいから」なんて言われて、

その気になって。

 第一試合が始まりました。

オックスフォードの選手は相手の出方を伺うばかりで、

攻め込む気配が全くありません。

「おい、何やってんだ。先に×を踏むんだ。Go forward!」

 「先の先」の初学者編を三分でレクチャーすると、

第二試合から面白いようにはオックスフォードが勝っていくではありませんか。

みんな大喜びです。

 祝勝パーティーの席で、私はリクエストに応えて色紙に揮毫しました。
「空手道
  先の先
    陰山泰成
      師範」
 空手という漢字は彼らも知っています。先の先についても、

おさらいの意味を込めて解説しておきました。

「で、これがカゲ・ヤマ・ヤス・ナリ。僕のフルネームだ」

「最後のこの漢字(師範)の意味は?」

「これ? ま、ミドルネームみたいなもんだよ」

 師範カゲヤマの色紙は、

今もオックスフォード大学の空手部道場を温かく見守っていると、

風の便りに聞いています。

2009年2月16日 (月)

医者の品格

 四年生になると臨床科目が始まります。

二・三週間のローテーションで、担当の共感について各科を回っていくというものです。

どんな職業でも言えることだと思いますが、「これはスゴイ!」lovely

という人物もいれば、「ダメだこりゃ」という人もいます。

プロとしての技量においても、人間的な器においてもそうです。

くっついて回っても時間の無駄と思われる場合には、

必要最低限以外は図書館で自主勉強を決め込みました。up

 消化器内科の担当医は空手部のOB。

学術的にはさほど抜きんでているとは思えないものの(すみません)、

人間的には惹かれるものがありました。

「とにかく、ついて回れ」up

 自分に従えという意味ではもちろんなく、

「全部見ておけ。それで自分なりに消化していけ」—

そう背中で語りかけているように、私には見えました。

患者とのムンテラ(治療説明。いわゆるインフォームドコンセント)などは、

特に時間をかけてしっかり見せてくれる医師でした。

(西洋医学にも人格的に優れた人物は結構いるんだなsign03

 優れた人格というのは、現在の医学教育の中で培われるものではなく、

その生い立ちや資質、個人の努力に負うところが大きいのは確かだと思います。

悲しいかな、現代の医学部教育の最重要課題は、

「いかに国家試験の合格率を上げるか」にあります。

命とは何か。医療とは何か。sweat01

そんな、最もベーシックな問題をとことん突き詰めていくような時間は与えられません。

人格的に優れた医療者よりも、

国家試験対策講座の熟練講師の方が、

求められる人材としての順位が高くなってしまうのは、

実に淋しい現実です。 

近年は、国家試験に出ることばかり詰め込むのもどうかという考え方も

広がってはいます。clover

医者はまず技術だろうということで、

オスキーという客観的臨床能力試験を導入する大学も増えています。

けれども、歴史や文学、倫理や宗教といった

「人への想い」を涵養するための教育こそが、

本当は一番大切なのに違いありません。fuji

2009年2月15日 (日)

再び、「限界の向こう側」へ

至極当たり前の話ですが、医学部には勉強しなればならないことが山のようにあります。

それまで本気で勉強した経験のなかった私にとって、

そのハードルの高さは相当なものでしたsign05

何しろ、歯学部時代の国家試験前の模擬試験では百二十人中百十九番

(百二十位は精神的なトラブルで勉強ができなくなっていた学生)。

実質どん尻卒業の頭をひっさげて医学部に入ったのですから。

 さらにまずいことに、前述したK教授による医学部教育革命の旗頭の元、

臨床研修は四年生から開始。clover

三年の終わりまでには全ての病理学科目を終わらせなければなりません。

ただでさえガンガン詰め込まざるを得ない医学部のカリキュラムをさらに

濃縮してしまう訳ですから、これは相当にキツイものがあります。

さらに二週間に一回はテストがあり、合格点に達しないと、

一週間後には追試が待っているのです。

生まれて初めて「真面目に勉強しないと、これはマズイことになる」

という悲壮感と緊迫感が、じわじわと私を圧倒し始めました。

 私立の医学部は、ご存じのように学費が高額です。ざっと計算して、

一日当たり三万円。これは気合いの入るコストです。fuji

まかり間違えても留年なんかできません。ましてや、

養うべき妻子のある身。生計を立てつつ、

自分で学費を稼ぐという自転車操業です。

普通にやっていたのでは、到底毎回のテストに合格できるわけがありません。

 そんなところへ、鼻先に人参がぶら下がりました。

医学部では、上位六名に対して年間百二十万円の懸賞金、

つまり返還義務のないお金がもらえる事実を知ったのです。根性が座りました。

(ようし、生活のかかった男の底力を見せてやる!)

 元々の私の脳ミソでは普通に勉強していたのでは到底無理なので、

飛び道具を探すことに。早速目をつけたのが「速読術」や

「高速学習法」で知られる右脳開発トレーニングです。七田式、SRS、

加速学習法などいくつかトライしてみましたが、

幸いどれも私にはすこぶる合っているようです。cherry

催眠術のトレーニング経験がベースにあったせいか、

面白いほど効果が出ました。

 二ヶ月目には脳が活性化してくるのが実感としてわかるのです。

思い切ってアルコールを減らしたことも効果を高めるのに一役買ったのでしょう。

とにかく頭の中は一日中ミントのそよ風のようにスースーしていて、

爽快なことこの上なし。記憶力もめきめきアップしてきます。

 お陰で無事、一年目から賞金の百二十万円を手にできるようになりました。

 ところが、ある総合試験を直前に控えた頃のことです。

クリニックの仕事の関係で、試験勉強に割く時間がほとんど取れないという

非常事態になってしまいました。cherryblossom

(こりゃ、今回は間に合わないかも)

 百二十万円を逃しては、生活が成り立つ自信がありません。

妻子をどちらかの実家に預けて…などと、

一家離散の憂き目に合った後の生活を思い描きながら、

試験前夜を迎えました。時計の針が十二時を回る頃になると、

焦りはだんだん大きくなり、それに伴ってなぜだか股間もムズムズしてくる始末。

(まだこんなに残ってるのに集中できない。ああっ!だめだぁ)think

 試験開始まであと九時間、八時間…。

頭の中で鳴っているパニック映画のBGMは、

次第にボリュームを上げてきます。

そしていよいよマックスになった次の瞬間、

白い光がドーンと身体を突き抜け、突然、頭の中が涼しくなったのです。

そう、空手部時代、ランニング中に失神寸前になった時に起こった現象のように。

ランナーズ・ハイならぬ、ラーナーズ・ハイといったところでしょうか。

 そこから後は、ノートの見開き二ページをまるごと、

画像として脳に取り込めるようになったのです。

スキャンするスピードは恐ろしく速い。clover

さらに、試験に出そうな重要ポイントが、

イメージとしてボコボコかんできます

(それがまた結果から言うととても当たる)。

本当に右脳が活性化すると、

試験官の意図までも透視できるからでしょうか。

そんな状態が一時間近く続きました。

 もちろん本番では、鮮明にイメージに残っている文字や

文章をスラスラ答案に書き、到底届かないと思われた合格点を、

楽勝で取ることができました。

 右脳活性化による記憶力の飛躍的上昇、

これは決して奇跡でも夢物語でもなく、

トレーニングすれば誰でもできることなのです。

しかし、究極のフル活性の感覚にはいつも到達できる訳でなく、

どうも水モノ的要素があります。

私のトレーニングレベルでの限界かもしれませんが、

自分でイメージして引き出すところまではできませんでした。

 ともあれ、医学部時代の四年間で、

同じ様な体験が三回ありましたpen

いずれもピンチの感覚と強烈なモチベーションが重なった時です。

 人間の「脳力」は、せいぜい一パーセントから二パーセントの違いしかないと

言われます。火事場のスーパー馬鹿力は、

脳ミソの機能に関しても同じことが言えるはずです。

 私は、医学生には右脳教育が必要ではないかと考えています。

学ぶべき内容を減らすわけにはいかない医学生だからこそ、

短時間で多くの知識を身につけ、残りの時間をアルバイトやボランティア、

クラブ活動などの人格形成の時間に充てるべきではないかと思うのです。flair

2009年2月14日 (土)

三十五歳のお入学

 三十五歳の春、僕は十七年ぶりの大学受験に挑むことになりました。pen

 仕事を辞めるわけにはいかないので、

医学部向けの予備校に通うような時間的余裕はありません。

当時、学士入学が可能な医学部は、

大阪大学、金沢医科大学、東海大学の三校。僕は東海大学に狙いを搾りますeye

 仕事との両立を考えると、地理的な問題もありました。

しかし、最大のポイントとなったのは、入試科目が少ないことでした。

東海大医学部の学士入学試験は英語と小論文と面接だけ。

英語は知夫里島時代に結構な量の海外論文を読んできましたし、

小論文はEAVに関するストックがあります。面接についても、

催眠療法で経験を積んできたので、初対面の人でも、

どう対応したら効果的かくらいは朝飯前です。up

(これならイケるんじゃないか?)。

 案の定、イケました。

幸運にも、さしたる苦労もせずに合格通知を手にすることができたのです。

ただ、比較的楽に越えられたのは、入試という最初のハードルだけだったのですが・・・。

 さて、約十年ぶりのキャンパスライフ。

そこには時間的なブランクだけに留まらない相当なギャップがあります。

そのギャップにどっぷり浸るのも、オヤジ学生の密かな楽しみでもありましたheart04

 九州歯科大学の同窓生は、公務員やサラリーマン家庭の息子がほとんどで、

泥臭くて厳つい成り上がり志向

(よく言えば、ポテンシャルが高いとも言うのかもしれませんが)。

一方、新しい同級生は、大半が医者か資産家の子息ならびに令嬢。

とは言え、偏差値ピラミッドの頂点に君臨するような大学でもないので、

妙なエリート意識もなく、ピュアでおっとりした気持ちの良い学生ばかりです。up

 一番のカルチャーショックは、女子学生がやたらとカッコイイことでした。

男女比がほぼ五対五という比率ゆえの存在感の大きさかと思ったのですが、

どうもそればかりではなさそうです。fuji

 スラリと背が高くてなぜだか胸も大きいナイスバディの持ち主が多いのは

、オヤジでなくても嬉しいものです。

授業では、女子が最前列から前半分を陣取り、

テストでも上位に名を連ねます。ディスカッションでも常に中心にいるし、

酒の飲み方もスマートです。

もっとも、男女とも行きつけのショットバーがあるような連中ばかりなので、

小汚い居酒屋でイッキ飲みなんて野蛮な経験は少なかった模様。

九州時代、急性アルコール中毒を出すたびに救急隊員から

「またお前らか」と顰蹙を買っていた情景など、

遙か昔の異国の出来事のようですloveletter

 私は大いにギャップを楽しむことにしました。

かつて親の見栄で、誤魔化しで金持ちクラスに入れられたばかりに、

身体に異常をきたすほど萎縮してしまった三十年前の自分自身に、

「ほらね、心配しなくてもうまくいったよ」と声をかけてやりたいような気持ちでした。

 学生とクリニックの仕事の二足のわらじ。

時間はとにかく貴重で、一分一秒も無駄にできない状況ではありましたが、

せっかく十五歳も年下の男女と学友になれたのです。

どうせなら大学生活はフルに楽しまなければもったいないということで、

クラブ活動にも所属することに。heart04

 クラブはやはり、空手道部です。

ただし、同好会程度の活動であることを確認した上で。

「花の応援団」的不条理の世界から、週三回のお楽しみ会へ。

厳しい上下関係もなく、皆とてもフレンドリーです。

同じ空手でもこうも違うのかとあっけにとられつつ、

百八十度異なる学生気質をじっくり研究することができました。

それぞれの時代や環境に見合った力の引き出し方があることも確かです。

 ところで私の大好きな映画の一つに、

ロビン・ウィリアムス主演の『パッチ・アダムス』があります。

奇しくも医学部時代に観た映画でした。note

 生きる道を見失っていたアダムスは、

自殺未遂の果てに、自ら精神病院に入院。

ある時、リスの幻影に怯える同室の患者の心を解きほぐしたことから、

やがて立ち直った彼は精神科医を目指し、

ヴァージニア大学医学部に入学します。

そして権威主義の医学部内で様々な軋轢をくぐり抜け、

「笑い」で人を癒す医療の道を突き進んでいくというものです。

 公開当時のパンフレットに、某医大教授のこんなコメントがありました。clover

「この映画は凄く良い映画であるという感想のほか、

教材としての価値を認めた。「患者の個人名を呼ぶ」というシーンを

含めて数々のシーンがその候補になりうると見た。

公開期間中に、すべての医療職の学生、

とりわけ医学生には是非観て頂きたい。

彼らを「真面目」に指導している医科大学の主任教授は学生にこの映画の

感想文を提出させ、その評価によって進学の決定を下すくらいの

「英断」を要望したい」

 その通りだと思います。

一方で、この映画に心から感動できる教授がどのくらいいるのかが

心許ない気もするのですが。普通、医学部に入るには、

1小学生の頃から成績が極めて優秀、2経済的に豊かな家庭、

3親が医者 の三つの条件の内、一つ以上は満たしています。

第一志望校に落ちたり浪人したといったレベル以外には大した

挫折体験もないでしょう。

そんな彼らにとって最も恐ろしいこと、あってはならないことは

「落ちこぼれる」ことに他なりません。

 精神病院での入院体験を糧に、

周囲の軽蔑をものともせず、自分の信じる道を進んだ主人公を

「大したもんだ」とは思っても、どこまで自分と重ね合わせることができるでしょう。

そんな学生を評価しようという教授がどのくらいいるでしょう。

 さて、私が入学した東海医学部の教授の一人は、

前年に○大から引き抜かれてきたエリート教授でした。

着任と同時に、カリキュラム編成もアメリカ式の臨床に重きを置いたものに変え、

学生への訓辞もこう繰り返されましたdash

「君たちは今、医者になるために職業訓練校に来ているということを忘れないように。

従って、真面目にひたすら勉強してください。

クラブ活動は第一義ではありません。バイトなどもってのほかです」

 九州歯科大学も東海大学医学部も、

歯科医師、医師になるための職業訓練校のポジションであることには

変わりはありませんが、卒業して免許をとってからが、

医療人として社会に貢献できる人間になれるか否かの勝負所です。

医学書ばかり読んで過ごすよりも、

バイトで世間を知ることの方が大切な場合もあるはずです。

 私の経験からは、空手部の上下関係で学んだ社会性の基礎や、

体質が根本から変わるほどの体力作り

(医者はとにかく体力が一番)ができた九州歯科大学の方が、

勉強だけに追われた東海大学医学部の学生時代よりも有益だった

という実感があります。事実、現在、医療者としてあるいは教育者として

抜きんでた活躍をしている仲間たちは、

揃って成績は下位であった

(勉強以上に他のことに集中していた)のも偶然ではないように思えます

 パッチ・アダムスは、

「私がみているのは患者だが、彼らは患者であると同時に医師である」

と言っています。心の問題を癒しの柱と考える医療においては、

医師と患者が対等であることが大前提だからです。sweat01

 学校や塾でも常に上位をキープし、落ちこぼれること、

規範を外れることを許されなかった医学生に、

そんな想いがストレートに伝わるでしょうか。

医学部の教材にこの映画が使われたという話は、

それからも寡聞にして知りませんt-shirt

2009年2月13日 (金)

歯の詰め物で、不整脈!?

 EAVとはElectro Acupuncture according to Dr.Vollの略で、

ドイツ人医師フォル博士が開発した機器です。

体は組織細胞から固有の周波数が出ているのですが、

EAVは、手足にある経穴(ツボ)の電気抵抗値を測定することで

気の流れが悪いところを見つけ、その原因は何かを探します

開発者のDr.フォルは歯と関連する体の部位を電気抵抗値の変化から

発見したこともあり、EAVでは口腔内の因子を重要視しています

 
 三社のブースを巡り、それぞれの機器で自分自身をチェックしてもらったところ、

どのEAVオペレーターもほぼ正確にその時の健康状態を言い当てるのには驚きました。

島を離れて約一年、島の生活の対極とも言える不規則でストレスに満ちた生活

に戻ってしまった私は、不整脈が出始めていたのです。それだけではありません。

不整脈の原因となっているのは、なんと、

虫歯治療の跡に充填した左下奥歯のアマルガムにあると言うではありませんか

(生業である歯科でやっていることが不整脈の原因だって?

 もし本当だったら、これはとんでもないことになるな)

 この「とんでもない」という気分は、「本業の名誉に賭けて信じたくない」

といった類のものではありません。

それを実証してみたくて半ばワクワクしていると言った方が近いのですから、

我ながら困ったものです

 帰国後さっそく、問題とされているアマルガムを外してみたところ、

一週間もしないうちに、不整脈はピタりと止んでしまいました。これは本物です

 早速、クリニックをEAV診療中心の空間に変えたのは言うまでもありません。

六ヶ月間は自分の技量を高めるために無料でEAV検査を行い、

ホメオパシーの情報とともに、患者さん個人の波動を転写した水を提供しました

 かなり手応えのある結果が出てきます。膠原病や末期ガン、

初めて聞くような難病・奇病の患者さんまでもが集まって来るようになったのです。

(ここまでくると、内科の医者がいるな)

 歯科医に許された領域を越える診療を行うためには、

内科医とタッグを組まないと、法的なリスクが生じます。

そこで、現役を引退されたドクターに来てもらうことにしました。

 「和合医療」とか「医科歯科統合医療」という明確な概念こそまだなかったものの、

まさにその第一歩を踏み出したのです。平成七年のことでしたcherryblossom

 内科医と歯科医のクリニック。これで心おきなくどんな病気とも向き合っていける。

意気込みは充分でしたが、余生を穏やかに暮らそうとしていたドクターには、

「歯科領域と全身をつなぐ新しい分野の創造」というテーマにはさして

身が入らない様子でした。実際のところ、pencil

アドバイスを求めても明確な答えが返ってくることはありません。

患者さんの症状も軒並み、西洋医学中心の医療体系では治しにくいケースばかり。

風邪引きの患者でも診るつもりで引き受けてくださったドクターにとって、clover

ますますアドバイスの力は落ちる一方です。

 現在、私がタッグを組んでいる医師やヒーラーは、

方法論に多少の違いはあっても、理想とする医療のありようや哲学は共有しています。

意見交換をすれば、一+一が三にも五にもなるような同志です。

ところが当時の私の気分としては、恃むべきはまず療法家。dash

西洋医学しか知らない医師は、

看板を借りるための存在といっても過言ではありませんでしたcoldsweats02

失礼ながら、その高額な人件費が

「なんか、もったいないなあ」という思いは募るばかり。sweat01

 無論、求めるものが得られるもの。

自分が期待したほどのコストパフォーマンスが得られなかったのは当然なのですが。

(やっぱり、自分でライセンス取った方が早いか)annoy

 看板代という現実的な問題だけではありません。

EAVを使いこなすためには西洋医学的な知識ももっと

必要になってくることであろうことは予想できます。

加えて、それまでに親交を深めていた療術家からも次第に

「免許取るべし」の声が高まりつつありました。mailto

外からの声に背中を押されるまでもなく、

島にいたときの治外法権的鍼灸治療においても、

より深い医学知識の必要性を強く感じていたのです

「よしっ、一丁やってみるか!」sign03

2009年2月12日 (木)

リラクゼーション

島での二年間で、気力も体力も存分にチャージした私は、

平成六年の春、さっそくリラクゼーションセンターを立ち上げます。

その名も「グッドスリープ」。note

高校時代から温めていた「スリープショップ」のコンセプトをベースに、

都会を知夫里島化するという、壮大な計画のスタートです。cherryblossom

 「真夜中の歯医者」時代のリラクゼーションノウハウをさらに進めて、

著名な文化人や声優さんにもご協力をお願いしup

リラックスカプセルの中で聞くカセットやCDを制作しました。

まさに、時代のトップランナー・・・と言えば聞こえは良いのですが、

「癒し」が時代のキーワードとなるには、今少し時間が必要だったようですfuji

ちょうど同じ頃、老舗の音響メーカーが「リラクゼーションハウス」なるものを作ったもの

の、鳴かず飛ばずで終わっています。shine

ゆったりすることそれ自体にお金を払うという発想はもちろん、

予防医学してのリラクゼーションセンターなど、

まだ「お呼びでない」ようでしたsweat01

(「癒し」が定着した今でも、予防医学とはダイレクトに結びついていませんね)

 それに対して、様々な方法論を組み合わせた治療医学の方に、

思いのほか需要が多かったのは嬉しい誤算でした。heart04

リラクゼーションセンター自体のお客さんは少なかったものの、

どちらかというと「おまけ」感のある併設クリニックでは、

島で抱いたイメージがどんどん形になっていきます

鍼灸治療やマッサージ、リラクゼーション、

催眠療法などを組み合わせ、患者さんはたちまち増えていきました。lovely

 歯科と内科の連動も、この時期に始めたものです。

現在のクリニックスタイルの原型は、

予防医療としてのリラクゼーションセンターにあったのは確かですclover

 東京の人は、疲れきっています。

毎日エネルギーを使い果たしているとでも言えばいいのでしょうか。

訪れる三十代・四十代の患者さんは、

島の五・六十代よりも生命感が希薄です。

何科に行っても原因が特定できない不調や痛みを抱えた人が実に多い。

そんな人たちの小さなオアシスとして設立したリラクゼーションセンター施設でしたが、

治療医学部門のほうが口コミで広まり、一歩先を行くようになっていきますsweat01

 やがて、慢性疾患のある人たちも集まってくるようになりました。

これまでの各種施術の客観的な効果を確かめる術はないかと、

日本で出始めたばかりの波動機器を扱い始めるのですが、

なかなかうまくいきません。coldsweats02

EAV機器との劇的な出会いは、そんな頃でした。

オランダで行われたアーユルヴェーダの研修

(2ヶ月間瞑想三昧の生活をオランダマーストリヒトで経験しました。

指導者はビートルズに指導をして有名になったマハリシマヘシヨーギ、

この体験で石から光が飛び出てくるのが見えるようになりましたが

俗世間に下山した途端にあっという間に元の木阿弥でしたが、、spa

に参加した帰路、ドイツのバーデンバーデンで開催されている

健康博覧会にふらりと立ち寄ったのです。maple

2009年2月11日 (水)

師匠の縁

fuji あれから十五年。妊娠を機に実家に戻った妻と、

初めて島を見る子どもと共に、

里帰り気分で訪ねたことはありましたが、

ますます多忙になってくる日常の中で、

知夫里島じゃ健康作りの理想郷としてのイメージのまま、

次第に遠ざかりつつありました。loveletter

 平成十七年秋、道川さんはかなぎ漁の途中で心筋梗塞で倒れ、

あっという間に旅立っていかれました

「お墓参りに行かなくては。道川さんと島の大自然への恩返しを墓前に誓うために」

 ボートの上でハンカチを振る師匠の姿を思い出しながら、その思いを心に刻みました。

 そんなある日、平成十八年の春のことです。

私は人を介して、一人のスーパーウーマンと知り合いましたshine

かの知夫里島で「なごみの里」という介護施設を経営する柴田久美子さんです。

かつて、大手ハンバーガーフランチャイズチェーンで全国一の売上げを

誇った実業家でもある柴田さんは、

ある不思議な運命の導きで介護の仕事を始めたといいますlovely

 ある夜、布団にはいると、

彼女の内部にダイレクトに語りかけるような「声」が聞こえたのだそうです。

「あ・い」という二字でした。

「あい?」heart

 しばらくしてその二字が「愛」という意味を持った言葉としてピントが合った時、

何か大いなる存在からのメッセージに違いないと確信。

彼女の価値観は、一夜にして百八十度度変わってしまいました。

ビジネス一辺倒の今までの生活から一転、

人々に無償で愛をふりそそぐような貢生き方をしようとshine

 そのメッセージの意味するところを探る内、

「介護」という言葉が浮かんできました。

病院や施設に取り込まれてしまった「死」を日常に取り戻して、

畳の上で死を迎えられるような介護の仕事。cherryblossom

その新しいステージとして彼女が選んだのが、

それまで何の縁もなかった知夫里島だったのです。

在宅死亡率が日本一高いことが、その理由でした。

 
 さっそく村営の老人ホームで働き始めますが、

どうも思い通りの仕事ができません。

「愛」というメッセージをより具現化するため、

一念発起して全くのボランティアからで十人のお年寄りを預かるようになります。bud

 後に講演活動もするようになった彼女は、高齢者と「幸齢者」と呼びます。

 重度の認知症で、自分の排泄物を口にするような老人を

「ただ抱きしめてください」と。そのようなレベルの人というのは、

魂があちらとこちらを行き来しながら次第に向こう側に行こうとする、

非常にピュアな存在であって、抱きしめることで、逆に癒されるのだそうです

 そんな愛のこもった介護をボランティアで実践する柴田さん。

当然、有料で経営している村営のホームとの間には軋轢が生じるのですが、

一人だけ、盾になってくれた人がいたというのです。

その話を聞いた瞬間、私は鳥肌が立つのを感じました。fuji

「もしかして、道川実さんでは?」

「まあ、道川さんをご存知なんですか?」

「自分の信念に従って、一直線に前に出ろ」と私に言い続けた

その言葉を全身全霊で実践している柴田さんを、

道川さんが放っておくはずがありませんheart02

 師匠が結びつけてくれた不思議な縁を、

私もそのままにしておく訳にはいきません。

十八年五月には、和合医療協会の定期セミナー

「和医和癒塾」で講演していただき、さらに八月には、

協会の仲間とともに知夫里島を訪ねるツアーも敢行したのです。

そして今年は、和合医療の基礎をつくってくれた島の方々へのお礼として、

日本の水墨画の第一人者の中野素芳先生とプロ和太鼓奏者のいちたろうさんに

同行していただき島の方々にも和文化の素晴らしさに触れていただきたいと

思っていますclover

地元のプロ顔負けの美声の持ち主の隠木さんの民謡と、

隠岐三味線の西谷さんとのコラボレーションセッションを心から楽しみにしています。note

海の卒業式

 その年の八月、私は二年間の僻遠地医療を卒業することになりました

契約期間満了に伴い、新たな目標に向かっての旅立ちではありましたがcherryblossom

知夫里島以外の島民からは

例の二番勝ちの歯医者、とうとう島におられんようになったらしいなcrying

と噂されていたとか。まるで知夫里島から東京への逆島流しです。

 とまれ、それまでとは百八十度異なる価値観で医療に携わる時間を

与えられたおかげで、一年目が過ぎる頃には、

「東京へ戻ったらあれをしよう、こんなこともやってみようnote

というアイデアと意欲が沸々と湧き出るようになっていました。

自分の人生設計が明瞭になると共に、健康観に関しての太い柱も形成されました。

医療の原点、健康の基礎はとてもシンプルであることに気付いたのです。

それは「自然から学ぶ」こと。このとてもシンプルなフレーズに集約されるものでした

 時と場所が変われば価値観も変わります。

物質的な豊かさを追い求めて西欧文明に追従し、

果てしない競争社会に生きる都会の人々と、

伝統的な日本文化を継承し、自然とともに生きている島の人々とでは、

あらゆる面で価値観が違います。confident

その両方を体験して、今後の都会の方々に健康創造を提供する仕事に携わる医療人

が、キーワードにするべきは『自然から学ぶ』以外にありません。

人間という小宇宙は、大自然の中の小さな一部分。

あらゆる生命の源である自然に立ち戻るという健康創造の本質に出会い、

これから進むべき道が完全に見えたからには、行動あるのみです

 毎日が送別会となった最後の一ヶ月もとうとう終わりを告げました。dash

来居港からフェリーに乗り込むと、別れのつらさが怒濤のように襲いかかってきます。

見送る顔も見送られる顔も、もはやクシャクシャ。

あまりにも濃密に貼り付いた時間と人情は、

それを引き剥がすのにこんなにも痛みをもたらすものなのかと思い知りますweep

 ただ、師匠の姿だけはどこにも見当たりません。

一抹の淋しさは拭えませんが、偏屈の固まりだけに、

こういう場面が苦手であることくらい容易に想像がつくというもの。

「しぇんしぇ、ありがとうね」crying

「奥さんと赤ちゃん連れて、また遊びに来いよー」

「相撲大会の度に肴にしてやるからな」

 船と港をつなぐテープが一本また一本と千切れていき、

波間に頼りなげに浮かんでいます。heart02

涙と潮風でバリバリになりかけた頬を拳でゴシゴシ擦ったその時でした。

沖合から近づいてくる一隻の小型ボートが視界に入ったのは。

 道川さんのボートです。

「頼むよ、師匠。まるで映画のワンシーンじゃ・・・」happy01

 言葉に出来ない熱い思いが込み上げてきます。

赤いハンカチーフを大きく振りながら何かを叫ぶ道川さん。

エンジン音で聞きとることはできませんが、

私の胸にははっきりと響いてきました。相撲の試合の直前に、

私の胸を突っ張りながらいつも言っていた言葉が。

「泰成、自分の信念に従って、一直線に前に出ろ!」run

 伴走は、一時間以上も続いたでしょうか。

やがて思いを断ち切るように、

ボートの舳先が弧を描いてUターンし始めた頃には、私の乗ったフェリーは、

知夫里島よりも境港に近い海域に達していたような気がします。

生涯最高の卒業式でした。bud

2009年2月10日 (火)

隠岐古典相撲二番勝ち事件

down 話を相撲に戻しましょう。かの地では、

例年「隠岐古典相撲」という隠岐四島あげての一大イベントがありますnote

そのルーツは、隠岐に流された後鳥羽上皇を何とか元気づけようと開かれたもので、

競技であると同時に神事でもあるそうですclover

 この大会では約五百番の対戦があるのですが、

最後の三番を飾るのが、小結・関脇・大関の「役力士」六人。

これに選ばれるには、相撲と酒が強く、

そして島の発展に貢献していることが条件になりますwave

 役力士の対戦には懸賞がかかるのですが、

これがお金ではなく、なんと杉の柱。

土俵を囲む櫓を支える杉の四本柱の内の一本です。

この杉柱が家の前に何本あるか。

それこそが名誉の尺度であり、当然、家格も上がってくるようですup

 私に知夫里島を紹介してくれた金岡君も、

後に隠岐島に戻って相撲に復帰し、

数年後には晴れて役力士となりました。

彼には大都市の大学病院で外科医を務めているお兄さんがいて、

子どもの頃から何をやっても叶わなかったといいます。

それが四十近くになって役を取ったことで、

「初めて兄貴を越えたぞ。いやあ、気分良かったなあ」とのことhappy01

 役力士とは、島の男たちにとって、そのような存在なのでした。

 この大会に出場するために、私は師匠について猛特訓を始めたわけですが、

その課程で経験した非常に興味深いエピソードをご紹介したいと思います。

 取組みは体重別になっており、最初の年は九十キロ近くまで体重を

増やして頑張ったのですが、なかなか勝てませんでした。

そこで次の年には六十五キロ以下の軽量級で挑戦してみようと、

一転、ボクサーばりの減量に挑戦したのです。

 絞りに絞って六十八キロまではなんとか漕ぎ着けたものの、

どうしてもあと三キロが落とせません。

そこで、サウナのある本島まで遠征して目一杯汗を流し、

とうとう六十四キロまで絞りきりました。copyright

 「よーし、これで大丈夫!」spade

 勝利の美酒ならぬ、コップ一杯の水を飲み干した私は、

特に何を考えるでもなく、もう一度先ほどの数字を確かめるために体重計に乗りました。

すると…。表示画面のデジタル数字は、何と「65.5」。

思わず我が目を疑いました。

 コップ一杯の水で一・五キロの増加です。

普通なら、体重計の誤作動もしくは最初の計量での数字の読み違いを

疑ってみるのがまっとうな反応かもしれません。

しかし私の口をついて出た独り言は、

「へぇ、こんなこともあるのか」という能天気なものだったのです。

「医者がそんないい加減な反応をしてどうするんだ」cherry

とお叱りを受けるかもしれませんが、

「まあ、それもありだろう」としか私には言えません。

何が「それもあり」なのかと言うと、

意識の持ち方で身体は簡単に変わるものだということを、

体験的に知っていたからです

 わかりやすいところでは、プラシボと呼ばれる偽薬。

「これはすごくいい薬なんだ」と信じて飲めば、

ビタミン剤で頭痛が治まることくらいよくあります。

「気」の力でスプーンを曲げる人もいれば、fuji

心の持ち方を根本から変え、

常に愛や感謝で満たされるようになったことで、

ガンが消滅してしまう人さえいます。

量子力学でいう「人の意識が現実を創造する」

という結論そのものと言えるでしょう

 目先の目標に到達し、

ふっと意識が緩んだところで体重が変わるぐらいは、

どうってことないないのです(少なくとも、この本の中では)。

 「隠岐古典相撲」は別称「人情相撲」と呼ばれていて、

大会では同じ相手と二回対戦し、

必ず一勝一敗で終わらなければなりません。

遠流の島で不遇をかこつ御鳥羽上皇を慰めるために始まった行事ですから、

古き良き和みの心が根底にあるのかもしれません。

 一回目は真剣勝負。事実上はここで決着がついているのですが、sun

二回目は最初に負けた側に花を持たせます。

個人の勝負であると同時に、

その力士を出した地域同士の勝負であることから、

後にしこりをのこさないための配慮でもあるのでしょう。

 五百番もの取り組みは、朝から三十時間ぶっ続けで行われます。

甲子園さながらの地元の名誉もかかったお祭りですからwatch

力士も観客も朝から杯を上げてハイになります。

待ち時間に自分の杯に注がれる酒はもれなく干さなければなりません。

役力士の条件に「酒豪」が必須となるのは当然です。

 それは二年目の大会での出来事でした。

 私の出番が回ってきたのは、夜中の三時頃を回っていたでしょうか。

相撲に劣らず肝臓もずいぶん鍛え上げてはきたはずでしたが、

朝から飲み続けていればさすがにフラフラです。cherryblossom

 舞台を思わせる高い土俵に上がると、

目もくらむばかりのライトと大声援。浄めの塩も四方八方から飛んできます。

とにかく立ち会いが勝負。それだけを念じていました。

「残った!」

 気がついたら相手と一緒に土俵の下に転げ落ちていました。軍配は?

「かげやまーっ!」

(おう、勝ったか)

 思う間もなく、物言いが入りました。

審判団が何やら協議をした後、再度土俵に上がるよう促されます。

(なんだ、取り直しか)

 ムそう思い込んだのが空前絶後の大失敗でした。

「行事は陰山に軍配を上げたが、実は同体で云々」

という審判部長の説明を、そのディープな隠岐言葉と酔いと興奮のせいで、

私はちゃんと聞き取れていなかったのです。

 実は「いろいろ検討した結果、

やはり軍配通り陰山の勝ちとする」であり、

次の一番は取り直しではなく、お約束の人情相撲だったのです。

にも関わらず、

「よっしゃー、今度こそ勝ってやる!」note

 一回目よりもさらに沸き起こるアドレナリンに突き動かされ、

渾身の力で突進します。次は勝たせてくれるとものと安心しきっている相手は、

さほど力を入れずにぶつかってきます。

二回目は一瞬で勝負がつきました。

ガッツポーズの陰山。

が、なぜかあたりは水を打ったように静まりかえっているではありませんか。

審判団も砂かぶりの観客も、

しばらくはこの明白な勝負の結果を理解できないかのような表情に見えました。

 やがて、その重苦しい沈黙の固まりから小さな虫がはい出てくるように、

ひそひそ声が会場中に広がり、徐々にボリュームを上げていきました。crying

「おい・・・」

「何じゃ、ありゃ」

「勝ちよったぞ」scissors

「うわあ、やってくれたなあ」

 どうひいき目に見ても賛辞でないのは明らかです。

はるばる応援に駆けつけてくれた金岡君が顔を紅潮させて一言。

「あほか!二回目は勝ったほうが負けることになっとるってあれほど言っただろう!」

「えっ、一回目勝ってたの?」

 二十年ぶりの不祥事だったそうです。

古典相撲で二番勝つことは、犯罪に匹敵するほどの掟破り。

私は世話役と村長に連れられて、相手力士とその村の村長に謝罪に行きました。

最高級の「隠岐の誉」を持って…。まさに気分は流人です。

「この度はまことに申し訳ないことで、何とお詫びを申し上げていいやら…」

「まあまあ、済んだことやし。よそから来た人だけん」などというお情けなどなかったのは、

言うまでもありません。

張本人が島を去って十年以上を経た今でも、酒の肴に語り継がれているそうです。bottle

2009年2月 9日 (月)

健康と幸福の作り方

高齢化率が四十%を越える島というと

あちこち病気を抱えた老人ばかりの寂しい村というイメージが浮ぶかもしれませんが

ここの爺さん婆さんときたら、おそろしく元気なのですsign03

道川さんに限らず島民の歯質は概ね良好でした。

若い人の間でも、都会では毎日のようにお目にかかる顎関節症

(口を開けるとコキッと音がする、アレです)や舌の病気には、

ついぞ一度もお目にかかりませんでした。clover

 四十・五十はまだ洟垂れ。六十代・七十代が主に行政を担い、

八十でやっと一線を退いて「若いモン」の後方支援に当たるのが、

この島の男たちの平均的なライフプランですhappy01

東京の働き盛りのサラリーマンは、

島のご隠居たちよりもずっと生気のない顔をしていたのを思い出しましたwobbly

 生涯現役。仕事はもちろん、夫婦の営みにしてもそんな人たちが多いようです。

道川さんと同じくかつての横綱クラスで、七十過ぎで現役の漁師だったMさんにも、

健康と若さの秘訣を訪ねたことがあります。good

「いい水と飯、それと夜のお勤めじゃなぁ。今でも三回はしとるけん」

(おおっ。七十代で年三回? いや待てよ、これだけ元気な爺さんなら、

月三回ってこともありうるな)

 そこへ、傍らの奥さんが笑いながら切り返しました。coldsweats02

「まあ、しぇんしぇえの前で見栄張って。先週はそんなにはなかったじゃったろう」

「(先週!?)そ、そうですか」lovely

 年を重ねても元気に仕事や家庭を切り盛りし、

いつまでも睦み合える夫婦でいることは、

果たして特別なことでしょうか(ま、週三回は別として)。

人間には、本来そんな力が備わっているのに

、自然な暮らしから遠ざかるに連れ、

どこかに置き忘れてきたような気がしてなりません。bud

私が現在につながる医療哲学の柱を立てることができたのは、

島の人たちの暮らしぶりに直に触れることができたお陰だと思っていますfuji

 ついでに言うと、隠岐的健康生活の果実は、

私の健康観や医療哲学以外にもありましいた。

結婚三年目にして初めての子どもを授かったのです。

 最近は加工食品や冷凍食品なども手にはいるようですが、cherryblossom

少なくとも十数年前までは、食品といえば究極の産地直送。

その土地で採れた旬の素材を余すところなくいただくという食生活は、

マクロビオティックの考え方に似ています。cherry

 ダイエットやスローライフブームに乗って、

今では書店でも「マクロビオティック」の名を冠した

料理本をたくさん見かけるようになりました。

ハリウッドスターの間でも密かなブームとなり、

近年になって逆輸入された感がありますが、

実はれっきとしたメイド・イン・ジャパンfuji

桜沢如一という思想家が体系化した東洋哲学に基づく食養法なのです。

中でも「身土不二」という考え方は島の食生活そのものだと思います、

身体と環境(土)は一元一体でありmaple

暮らす土地で採れる旬の素材を常食することで、

身体は環境に調和して健康を保てるというものriceball

その土地のコンビニで買うものを常食してる東京の人に元気がないも、

当然すぎる成り行きです。

 島の人々は、食べるものだけでなく娯楽も自前で創造します。

とにかくお祭りがしょっちゅうありました。

私が特に感動したお祭りは、弘法大師空海の誕生日をお祝いする

三月十五日の御大師祭り。

合計七箇所のお堂で隠岐の郷土料理をふるまうというものですbottle

 ここで陰山特選知夫里島グルメ情報を一節。

魚介ではアオリイカやシイラ、赤ウニ・青ウニ、馬糞ウニが抜群に旨い。

サザエなどは素人でも簡単に穫れるほど豊富です。

本土ではマンサクと呼ばれることの多いシイラは、

鮮度が落ちるのが早いので、出荷する分は水揚げするとすぐに血抜きをしますが、

島でなら中トロも味わえます。これがもう、今風に言うと「ヤバイ」くらいの旨さ。

天然海苔のすまし汁も絶品ですfish

川からはヤマメやワタリガニ、里山ではタラの芽などの山菜や

きのこもふんだんに採れましたjapanesetea

 まさに海の幸、川の幸、山の幸の三役揃い踏み状態に、

お母さん達のてんこもりの愛嬌が添えられたご馳走の数々。

これまでの私の人生で、食べる幸せというのを最も味わえたのは

他ならぬ知夫里島だと断言できます。

 御堂では、どこを回っても心づくしのご馳走と

お酒が朝からもれなく振る舞われます。

「午後からは診療があるので」と丁重にお酌を辞退しても、

「まあ先生、固いこと言わんと、ちょっとぐらい」とほだされ…bottle

 かくして三軒目を回る頃には、

島のあちこちの電信柱に括り付けられた拡声器から全島放送が流れるのでした。

「本日の歯科診療は、陰山先生が酔っぱらっちょるけん、お休みになりますーbearing

2009年2月 7日 (土)

伝説の漁師

footあり余るほどになった気力、体力、そして時間の使い方として、

私は、相撲に取り組むことにしましたnote

四島あげての大規模な相撲大会があるらしいことも興味をそそりました。

もっとも、島でのリクリエーションというのは限られていて、

バレーボールと相撲くらいしかありませんrun

よって、男子と生まれたからには、有無を言わさず相撲heart02を仕込まれるのです。

 島で最も尊敬される男とは、村長でも助役でも、

都会に出て一旗揚げた男でもありません。

相撲の強い男good」これに尽きます。この価値観には、ちょっと痺れました。

(本腰を入れてやってみるか、そのためには師匠につかないとな)。

 こうして私は、島の伝説の鉄人力士、道川実さんの門を叩いたのです。

 道川さんは、カナギ漁という伝統漁法の名人shineです。

箱メガネで海中を覗いて、

二十メートルはあろうかという物干し竿のような

ヤスでアワビやサザエを穫るのですcancer

 三十数年前の高校総体では、

元横綱輪島関と互角の勝負をしたという逸話の持ち主でもありました。

その腕力たるや、五十を過ぎようかという当時、

百キロ以上の碇を軽々持ち上げるのですcoldsweats02

 後になって知ったことですが、四島ある隠岐諸島の中で、

なぜか知夫里島には本格的な力士が極端に少ないのです。

他の三島ではそれぞれ百人を超える力士がいるのですが、

知夫里では道川さんを含めて三人しかいませんshine

いくら小さな島とは言え、人口比から考えても少なすぎました。

その理由とは、道川さんのあまりにも厳しい稽古と偏屈ぶりに

ついていける男がいなかったからだとか。

というより、その厳しさが伝説化してしまったために、

最初から弟子入りを志願する者などいなかった、というのが正解だと思います。eye

 私の弟子入りを聞いた島の男達は、

あの歯医者、正気か?」と、半ば呆れつつも、

その蛮勇を讃え合ってくれたそうです。

幸い私には空手道部での強力な免疫があったので、

確かに厳しい稽古ではありましたが、十分楽しむことができました。

 私が道川さんを師と仰ぐきっかけとなったのは、

その伝説の数々を知るよりも前、

患者としてやってきた道川さんの歯の見事さに圧倒されたことにありました。dash

 かなぎ漁では、箱メガネを前歯でガシッと噛みしめているためか、

前歯だけは変なすり減り方をしているものの、

臼歯は親知らずまでビッシリ八本生え揃い、

歯質も極めて頑丈です。

エナメル質はあくまで硬くて厚く、

少々削っても神経のある象牙質まで届かないので、

麻酔もほとんど要らないほど。dash

「いやあ、参ったなあ。どうやったらこんないい歯ができるんですか」

「何も変わったことはやっとらん。

相撲とかなぎ漁をやってきただけや。

毎日旨い魚と自分で作った米を食ってなriceball

 新鮮な魚介と無農薬の米と野菜。島の食材は最高です。

さらに銘水百選にも選ばれるほどの上質の湧き水が二カ所もありました。

「それから、飲み会は気の合わない人間がいるときには行かんから、

不味い酒を飲むこともないわな」bottle

 なるほど。気の合わない人間とのつきあいを避けて通れば、

ストレスのかかりようもありません。

もっとも私から見れば、島の人たちは気さくで温かい人ばかり。

こんな人たちでも選んで付き合うところに道川さんの偏屈ぶりが伺えます。

いずれにしても、天然の水や食物を摂ってストレスのない生活することが、

健康の極意であることは間違いありませんfuji

 その頑強な歯と身体の持ち主に、私は特訓を受けたわけです。

ぶつかり稽古を重ねるうちに、肋骨を疲労骨折したこともありましたが、

空手部時代に比べればなんのその。と、強がってはみるものの、

島を出るまでの二年半、私は二回り近く年長の師匠にただの

一度も土を付けることはできせんでしたfish

今に思えば、相撲の技術だけでなく、

師匠の気骨を学ぶ道場でもあったような気がするのです。

 稽古の後、「隠岐の誉」を酌み交わしながら、

その分厚い掌で私の背中を思いっきり叩いては、

道川さんはよく言ったものでした。

「誰に何を言われようと、自分に柱を持って我が道をひた走っとりゃあ、

老いることなんぞないぞ。泰成!」flair

2009年2月 6日 (金)

島で癒す・島が癒す

 平成三年の晩秋、私と家内は知夫里島に降り立ちましたairplane

見たことのない海の色。そして心底あったかい人たちwave

 心のこもった歓迎会もお開きになり、歯科医住宅に送ってもらう道すがら、

私たちはその夜の深さに思わず息を呑んだものですwave

漆黒の闇のないところから来た人間には怖いほどの静寂でしたnight

当時、島にあるまともな店といえば、食料雑貨店一軒のみ。

ネオンはもとより、信号さえない夜道を、ヘッドライトが異様にくっきりと

照らし出しています。

たぬきが何度も道路を横切りcapricornusライトに照らされてびっくりしている様は、

新しい住人を歓迎しているかのような、おどけた動きに見えました。

 集落やわずかな宿屋の灯りが一つ、また一つと消えていくと、

人工的な灯りはどこにもありません。

満天の星空の迫力も圧巻ですnight

純度百パーセントの夜が、そこにはありました。

 僕の着任前、しばらく歯科医の空白期間があったために、

最初の二ヶ月はけっこう賑やかな歯科診療所hospitalとなりました。

しかし、人口八百人足らずの島だけに、三ヶ月目ともなると患者さんは

一巡してしまい、歯の治療に訪れるのは一日に一人か二人sign03

治療よりもその後の雑談の方が長くなるようなのんびりした診療所です。

しぇんしぇえ、最近、どうも腰が痛うてねえ

それは困りましたね。もし良かったら、

僕、鍼の勉強もしてるんで、ちょっと試してみましょうか。

やたらと湿布を貼ったりするよりはいいと思いますよ

 そんな具合で、鍼灸治療のサービスnotesをさせてもらうことが多くなっていきました。

 小さな島の口コミ効果は絶大ですup

気がつけば、歯よりも肩こりや腰痛を治しにやってくる患者の方が

多いではありませんか。知夫里島には鍼灸師が一人もいませんし、

内科医も一日おきの出勤です。しばらくすると、

腹痛や頭痛、しまいには外傷まで診るはめになってしまったのですclover

 
 歯学部といえども、外科や内科の分野も結構勉強することにはなっています。

しかし、六年間、空手しかやってなかったツケで、

脈診以外のことは正直よくわかりません。

催眠術で鍛えたリラックストークでごまかしながら、

結果は鍼治療で出すのみ。真剣勝負ゆえに、実力も格段についてきましたnote

 当時の一日を時間割風に記述してみると、

一時間目が歯科治療。二時間目から四時間目が鍼灸治療。

午後からの放課後は瞑想と自主勉強。そんな感じでしょうかthink

 自主勉強である東洋医学の中で、当時、とりわけ興味を深めていったのが、

インドの伝承医学であるアーユルヴェーダと、

ヨーロッパの伝統的代替療法・ホメオパシー(同種療法)。

文献は英語で書かれたものが主流なので、

人生初の英語浸けの日々も経験しました。

古き良き日本の秘境で英語漬けというのもヘンな話ではあります。

 ほんの少し仕事をして、けっこう勉強もして、

それでも時間にお釣りがありました。

一日の労働時間が十七時間から四時間になったのですから、

当然と言えば当然ですが、単に自由な時間が増えただけではなく、

時間の密度が全然違うのです。島内随一の絶景、赤ハゲ山に登って、

ただボーっと紺碧の海を見下ろしているような時間もふんだんにあり、

それが何より心地よかったのを覚えています。pen

 神経症などに有効な、森田療法理論というのがあります。

人間が本来与えられた生命力を最大限に発揮するために、

自分の立場や環境の中でどうしたらいいかを考えるものです。

例えば、一つのことに没頭しすぎて燃え尽きてしまったような患者には、

ある期間はとにかく「何もしない時間をつくる」という方法論もあります。

知夫里島での最初の一年は、そんな癒し効果もあったのでしょう。

私の心身は、そしておそらく魂までも、

どんどんエネルギーが充満してくるのを感じましたclover

2009年2月 5日 (木)

離島が呼んでいる

 待合室のソファでダニと格闘しながら束の間の睡眠をとるような生活tmは、

平成三年の夏まで、二年半近くrun続きました。

およそ人間の生活じゃないと思っていた空手部時代flairに匹敵するハードな日々

だったような気がしまず。

さすがの私も、「ちょっと休憩したいなbud」という思いが日ごとに募っていきました。

疲れがピークに達していたこともありますが、

この辺で東洋医学を一気に究めたいという気持ちがclub急速に高まっていた

時期でもあったのです。

 ある晩、一本の電話telephoneが入りました。九州歯科大学時代の同級生で、

陸上部の主将だったk君からです。

運動部の主将同士という立場もあってか、

当時からウマが合い、トラ箱事件で追試を受けた陶歯配列の試験も、

なぜか彼と一緒だったのを覚えています。互いの近況報告と、

近々飲みに行こうという約束をした後、彼はこんな話を切り出しました。

 「俺、田舎が隠岐の島だって話はしたよな。

隠岐諸島は主な島が四つあるんだけど、

その中で一番小さい知夫里島という島があってな。cancer

そこで歯医者を探してるんだhospital

そんな秘境のようなところにいく歯医者はまずいないとは思うけど、

『万一いたら』という程度に気にとめておいてくれんか。契約期間は二年だtwo

 当時、知夫里島の歯科医は、

鳥取大学の口腔外科から二週間交代で派遣されていたそうです。

島民にとって、「歯医者がコロコロ変わるのはかなわんなあ

というのはもっともですし、しかも派遣されるのは、

抜歯や口腔ガンを専門とする、いささか荒っぽいジャンルの医者ばかりnotes

ここらで是非、安定した形での歯医者さんをbud

という話が持ち上げっていた矢先だったのです。

それ、俺が行こうかなheart02

 思わず答えてしまったのを覚えています。
 
 後日、酒を酌み交わしながら島の話を聞くにつれ、

ふと口をついて出た「俺が行こうかな」も、

だんだん本気モードになっていきます

雑音のない離島。たっぷりの時間。瞑想三昧。美味い魚…。scorpius

魅力溢れる新世界はどんどん私の中で膨らんでいきましたup

「なあ、そこで鍼灸治療もやらせてもらえないかなあ。

ボランティアでいいからさ」

オッケー、オッケー。治外法権みたいなもんだから

 通常、歯科医師の免許で鍼灸治療ができるのは、

大学病院の中だけに限られています。

一歩大学の外に出ると、合法的にはできないことになっているのです。

鍼灸師の免許をもっていない歯医者が、なんで大学ならやっていいんだよchair

という疑問もあって然るべきだと思うのですが。

 少し横道に逸れますが、日本の医学部教育には鍼や漢方のカリキュラムは

ただの一時間もありません。punch

にも関わらず、普通自動車免許があれば自動的に原付免許が得られるがごとく、

医師や歯科医師の国家試験にパスすれば、

鍼も打てるし漢方薬も処方できるという不思議な業界なのです。

医者というのは。notes

 車と原付では交通法規は共通ですし、

自転車に乗れる人なら誰だって原付に乗れます。

自動車免許のオマケだとしても不都合はありません。

しかし、医師免許と鍼灸師免許は理論体系も技術も全く異なるものです

医師免許のオマケとは随分失礼な話だと思いませんか。

 現に中国では、西洋医師と中医師、韓国でも韓医師と西洋医師に

ライセンスは分かれています。clock

特に韓国では、韓医師はスーパーエリートcrownであり、

西洋医学を学ぶ医学部は滑り止めで受験するところなのだそうですsign02

ましてや両方の免許を取得するとなると、それ相当の覚悟がいる訳です。

 業界のナゾはこの辺までとして、とにかく、密約は島の村長とも成立しました。

治外法権は無事認められたのです

(分別のある大人は黙っているべきかもしれませんが、時効も成立していることですし)。

2009年2月 4日 (水)

真夜中の診療室

 九州歯科大学を卒業した私は、歯科医師の国家試験も無事合格して一路東京へfuji

(試験直前まで、乳歯の総数を知らなかったほどですが…)

 上京の理由はもちろん、将来設計の本道である催眠療法sandclockを極めること。

小学五年生の時に出会った『自己催眠術入門〜催眠で人は変われる』以来、clover

最も多くの本を読み込んできた守部昭夫氏heart04に師事するためでした。

守部先生は、当時の催眠術の世界で頂点を極めていました。

既に通信教材やセミナーでは学んでいましたが、

催眠療法によるカウンセリングの仕事をするためにはnote

どうしても直接学びたかったのです。

 朝から夜中までスケジュールはびっしりです

昼間は歯科麻酔学での全身管理の仕事penと、

東京医科歯科大学での鍼灸経絡治療の研修run

そして守部催眠学院でのアシスタントスタッフcoldsweats01

土日はアルバイトの歯科診療診療もしました。

そして、歯科医になって一年後には、夜の仕事nightも始めました。

陰山歯科医院の院長hospitalです。

 歯科医二年生での開業というのは、はっきり言って冒険でした。

 高校時代、夢を叶えるための資金稼ぎとして担任から進められた職業だけに、

強気で打って出たのです。

場所は品川駅からすぐの高輪bullettrain。当然、技術的には未熟ですから、

アイディア勝負に出るしかありません。そのアイデアとは、

診療時間を午後六時から午前二時twoに設定したこと。

そして、五感リラクゼーション治療upです。

 最近は午後の診療を遅めの時間帯にする歯科も増えてきましたが、

当時は仕事が終わる時刻にはクローズしているのが当たり前

残業後でも立ち寄れることから、

開業当初から患者さんが途切れることはありませんでしたnote

 十一時以降になると、患者さんの大半はお水のお姉様たちですwobbly

人生経験豊かな彼女たちから、接客のノウハウをはじめさまざまな

人生勉強をさせてもらえるのも有難いことでしたshine

ただ、時間が時間であり、アルコールの入っている人もいます。

さらにアロマやリフレクソロジー、ヒーリングミュージックribbonなどの

リラクゼーション効果budもあって、

患者さんがしばしば眠ってしまうのが難点ではありましたが…。weep

 目を覚ましてもらうまで治療はできないので

治療にかかる時間はますます長くなるのですが、

これも考え方によっては嬉しい話

眠れるということは完全にリラックスできている証です。

「歯医者に行くと思ったら前の日から眠れない」shadowという人はいても、

「歯医者でぐっすり眠っちゃって」lovelyという人はそうそういないと思います。

 リラクゼーションは、単なる差別化のためのサービスではありません。

緊張や恐怖が痛みの閾値を下げてしまうことpig

つまり少しの刺激にも痛みを感じやすくなることは理解していただけると思います。

音や匂いに身構えてしまう人の多い歯科だからこそ、リラックスが必要cherryblossomなのです。

 歯学部時代は空手浸けだったとは言え、専攻は歯科麻酔学

さらにツボの電気刺激で痛みの閾値を上げる臨床経験を積んだのも

痛くない治療」と好評でした。

 目指す本業?のために勉強してきた催眠トークnightも、

大いに役立ちました。

初診時で何か共通点を見つけることでお互いの心理的な垣根を低くしtulip

患者さんの緊張を解きほぐすこと。

アルファ波を出す右脳を活性化させるためにcute

右脳につながる左耳に話しかけることなどもそうですrun

 次第に歯科恐怖症の人たちにも口コミで広がっていった

真夜中の診療室」。

午前二時までだったはずが、三時、三時半と次第に伸びていき

夏場など、最後の患者さんを送り出すと東の空が白んでいることもありました

 実は、山手線で隣駅の大崎だというのに、

待合室の中古ソファに撃沈してしまう日もしばしば

2009年2月 3日 (火)

知夫里島

fish今年の夏も訪問予定の知夫里島での私の体験を報告させていただきます。wave

ロハス医療の大事さをbud
この島の生活と島民の皆様から教えていただきました。clover

毎年40名限定で大自然を満喫し、自然からpenguin
大事なものを学ぶ男樹の旅と称して全国から猛者が終結してきますrun

今年は日本の水墨画の巨匠中野素芳先生と和太鼓奏者のいちたろうさんが同行し、airplane

参加者全員が島の壮大な景色を水墨画にしたり、ship

夜の和太鼓と三味線およびジャズソングのゴージャスなコンサートを楽しむ企画です。heart01

潜って自ら摂るさざえ、うに、あわびなどの食を堪能しwave

水墨画で和の感覚をたっぷり楽しみ、art

夜は

太鼓奏者のいちたろうさんによる和太鼓演奏cancer

高輪バンドのジャズ演奏が地元民謡および三味線と共演するというsagittarius

豪華な集まりです。

和太鼓の簡易指導yachtもあり、和太鼓と水墨画の体験ツアーlovelyでもあります。

島のツアー申し込みは高輪クリニック事務局栃倉までお願いいたします。cherry

tel 03-5798-3133 
fax 03-5798-3134

2009年2月 2日 (月)

謀反人の卒業

 それから三週間あまりは、

やっても無駄かと思うと勉強も手につかない状態でしたが、絶望はやがて、

半ば悟りの境地にも通じるものです。

お世話になった空手部OBの指導官には、

挨拶くらいしておくべきだろうと思い至りました。

「先生、こんなオヤジ学生の面倒をみてくださってありがとうございました。

こういう状況を自ら招いてしまって、本当に遺憾ですが、

留年が確定したようです。

家族を路頭に迷わせる訳にはいきませんので、

大学を辞めることになると思います」

 すると指導官は、こう言いました。

「いくら横暴な代表者がいようとも、

教授会という民主主義のシステムをとっている中で、

一人の意見だけで留年が確定することはないんじゃないの?

 それにどうせ辞めるんだったら、

せっかく卒業試験の受験資格は与えられたんだから、

飛びぬけて一番の成績で落ちたらカッコイイんじゃないのかなあ」

「は、はい…、わかりました」

 先生の一言は、一瞬で私の心に光を投げかけてくれました。

(よーし、カッコよくずばぬけて一番か。頑張れよ、俺の右脳!)

 新たに課せられた二十時間のボランティア活動は、

長岡西病院の仏教スタイルのターミナルケア施設「ビハーラ」で行いました。

 ビハーラでは、医師もナースも本物のホスピタリティ精神の持ち主でした。

患者や家族の心の平安よりも学会の準備の方が大事などこかのホスピスと違って、

患者さんの身体と心が和らぐために、持てる限りの力を注ぎます。

患者さんに寄り添って何時間も手足をマッサージしているナースがいました。

「あの看護婦さんにさすってもらうと、

ほんとに痛みが引くのよ」と患者さん。

 医療者と患者というよりも、見送る人と旅立つ人。

看取る側が、いずれ看取られる側になるという円環の思想が、

そこには満ちあふれているように見えました。

 試験が間近に控えていなければ、

もっと滞在して多くを学びたい施設です。道連れ組の五人も、

本当に済んだ目でボランティアに取り組んでいるのを見て、

ホッとするやら、申し訳ないやら…。

 こうしてボランティア活動を終えると、

全身全霊をかけて試験勉強に集中しました。いよいよの土壇場になると、

例の「ラーナーズハイ」状態が訪れ、

「白い光」もかなりの長時間にわたって私を包んでくれたのです。

 結果、卒業試験では、無事に、

合計点数トップの成績を確保。あとは教授会の審判を仰ぐのみです。

 卒業確定者発表の日の朝、

学生主任の教授から呼び出しがありました。

「お前は悪運がつよい奴だ。ギリギリ卒業させることに決まったぞ。

通常、卒業試験一位は、卒業式で金時計を授与されることになっとるが、

お前のような奴が東海大学医学部の歴史に名を残すことはあってはならんので、

金時計はなしだ。これは私と学部長の裁量での決定事項だ」

 まさに九死に一生で留年を免れ、卒業できることになったのです。

 卒業式の日。私は金時計こそもらえなかったものの、

もっと嬉しいプレゼントを仲間から贈られました。

同級生で選ぶ人気投票の「宴会部長部門」で第一位に選ばれたのです。

首席ならぬ酒席の誉れでオヤジ学生を無事終了することになったのも、

何とも私らしい学生生活ではありました。

和合医療の生きる道

 東洋医療と西洋医療のいいとこ取りを狙う和合医療のために、

やっとの思いで手に入れた医師免許。当初の目的は無事に達成しましたが、

紆余曲折の四年間で、新たな課題や意欲もむくむく

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