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高輪クリニック

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2008年9月

2008年9月15日 (月)

男樹の旅

男樹の会主催のツアー‘男樹の旅’が8月23日から25日まで開催されました。

知夫里島(島根県隠岐諸島の南端の島:人口約700人、
生息する野生狸の数約2000頭、牛700頭)は
私の僻遠地医療で2年間従事した島であり、
和合医療の原点であり自然医療のモデルとなる島です。

今回のツアーでは全国から37名の男樹あふれる猛者が終結しました。

北海道からも合計10名の参加者です。
大自然と触れ合い、また素晴らしい
方々と酒を飲みながら語り合う!

最高の旅でした。

今回のツアーでは、観光ルートからはずれた
日本最後の秘境ともいえる知夫里島の
大自然を満喫し、自然からなにかを学ぶという
主旨の集いでした。

海が多少時化たことからワイルドな海の姿もみせてくれ、
あらためて自然のやさしさと厳しさを
知るよい機会となりました。

島に行くと所詮人間は自然の一部であり、
現在西洋文明の
哲学ベースであるテクネー(自然から強引に要素を分離し、
他と分けて取り出す、
自然環境から搾取)という感覚は大自然の中では
単なるおろかな人間の錯覚であることを
いやというほど教えてくれます。

また今回人間のテクネー哲学からの産業が引き起こす
生態系への影響を実体験し、
寂しい気持ちと同時にこれから我々が
子孫のためにせねばならないことを
改めて認識させていただきました。

まずは18年前に私が島にわたったときの話しに遡ります。
そして今回の豪快なたびの報告をさせていただきます。

この島の僻遠地医療での体験が
現在の私の医療スタンスのすべての基盤です。

アホ理論が医療に絶対に有効であるとの発想が
自然にでるようになったのも、
この島での経験が大きいかったと思います。

それでは早速日本最後の秘境知夫里島に御案内させていただきます。

離島が呼んでいる

 平成元年に真夜中の歯科診療室を開業し、
待合室のソファでダニと格闘しながら
束の間の睡眠をとるような生活は、
平成三年の夏まで、二年半近く続きました。

およそ人間の生活じゃないと思っていた空手部時代に
匹敵するハードな日々だったような気がしまず。

「ちょっと休憩したいな」という思いが
日ごとに募っていきました。

疲れがピークに達していたこともありますが、
この辺で東洋医学を一気に究めたいという気持ちが
急速に高まっていた時期でもあったのです。  

ある晩、一本の電話が入りました。

九州歯科大学時代の同級生で、
陸上部の主将だった金岡君からです。

運動部の主将同士という立場もあってか、
当時からウマが合い、トラ箱事件で追試を受けた
陶歯配列の試験も、
なぜか彼と一緒だったのを覚えています。

互いの近況報告と、近々飲みに行こうという
約束をした後、彼はこんな話を切り出しました。

俺、田舎が隠岐の島だって話はしたよな。
隠岐諸島は主な島が四つあるんだけど、
その中で一番小さい知夫里島という島があってな。
そこで歯医者を探してるんだ

そんな秘境のようなところにいく歯医者はまずいないとは思うけど、
『万一いたら』という程度に気にとめておいてくれんか。
契約期間は二年だ」

 当時、知夫里島の歯科医は、鳥取大学の口腔外科から
二週間交代で派遣されていたそうです。

島民にとって、「歯医者がコロコロ変わるのはかなわんなあ」
というのはもっともですし、
しかも派遣されるのは、
抜歯や口腔ガンを専門とする、
いささか荒っぽいジャンルの医者ばかり。

「ここらで是非、安定した形での歯医者さんを」
という話が持ち上げっていた矢先だったのです。

「それ、俺が行こうかな」  
思わず答えてしまったのを覚えています。

 後日、酒を酌み交わしながら島の話を聞くにつれ、
ふと口をついて出た「俺が行こうかな」も、
だんだん本気モードになっていきます。

雑音のない離島。

たっぷりの時間。瞑想三昧。美味い魚…。
魅力溢れる新世界はどんどん私の中で膨らんでいきました。

「なあ、そこで鍼灸治療もやらせてもらえないかなあ。
ボランティアでいいからさ」
「オッケー、オッケー。治外法権みたいなもんだから」 
通常、歯科医師の免許で鍼灸治療ができるのは、
大学病院の中だけに限られています。

一歩大学の外に出ると、合法的にはできないことに
なっているのです。

「鍼灸師の免許をもっていない歯医者が、
なんで大学ならやっていいんだよ」という
疑問もあって然るべきだと思うのですが。  

少し横道に逸れますが、日本の医学部教育には
鍼や漢方のカリキュラムはただの一時間もありません。

にも関わらず、普通自動車免許があれば自動的に
原付免許が得られるがごとく、
医師や歯科医師の国家試験にパスすれば、
鍼も打てるし漢方薬も処方できるという
不思議な業界なのです。

医者というのは、 車と原付では交通法規は共通ですし、
自転車に乗れる人なら誰だって原付に乗れます。

自動車免許のオマケだとしても不都合はありません。

しかし、医師免許と鍼灸師免許は
理論体系も技術も全く異なるものです。

 現に中国では、西洋医師と中医師、
韓国でも韓医師と西洋医師にライセンスは分かれています。

特に韓国では、韓医師はスーパーエリートであり、
西洋医学を学ぶ医学部は滑り止めで受験する
ところなのだそうです。

ましてや両方の免許を取得するとなると、
それ相当の覚悟がいる訳です。  

業界のナゾはこの辺までとして、とにかく、
密約は島の村長とも成立しました。

治外法権は無事認められたのです。
(分別のある大人は黙っているべきかもしれませんが、
時効も成立していることですし)。   

平成三年の晩秋、私は知夫里島に降り立ちました。

見たことのない海の色。そして心底あったかい人たち。 

心のこもった歓迎会もお開きになり、
歯科医住宅に送ってもらう道すがら、
私たちはその夜の深さに思わず息を呑んだものです。

漆黒の闇のないところから来た人間には怖いほどの静寂でした。

当時、島にあるまともな店といえば、
食料雑貨店一軒のみ。ネオンはもとより、
信号さえない夜道を、ヘッドライトが
異様にくっきりと照らし出しています。

たぬきが何度も道路を横切り、
ライトに照らされてびっくりしている様は、
新しい住人を歓迎しているかのような、
おどけた動きに見えました。

 集落やわずかな宿屋の灯りが一つ、
また一つと消えていくと、
人工的な灯りはどこにもありません。

満天の星空の迫力も圧巻です。

純度百パーセントの夜が、そこにはありました。  

 僕の着任前、しばらく歯科医の空白期間があったために、
最初の二ヶ月はけっこう賑やかな歯科診療所となりました。

しかし、人口八百人足らずの島だけに、
三ヶ月目ともなると患者さんは一巡してしまい、
歯の治療に訪れるのは一日に一人か二人。

治療よりもその後の雑談の方が長くなるようなのんびりした診療所です。
「しぇんしぇえ、最近、どうも腰が痛うてねえ」
「それは困りましたね。もし良かったら、
僕、鍼の勉強もしてるんで、ちょっと試してみましょうか。

やたらと湿布を貼ったりするよりはいいと思いますよ」

 そんな具合で、鍼灸治療のサービスをさせてもらうことが
多くなっていきました。

 小さな島の口コミ効果は絶大です。
気がつけば、歯よりも肩こりや腰痛を治しにやってくる
患者の方が多いではありませんか。

知夫里島には鍼灸師が一人もいませんし、
内科医も一日おきの出勤です。

しばらくすると、腹痛や頭痛、しまいには外傷まで
診るはめになってしまったのです。   

歯学部といえども、外科や内科の分野も
結構勉強することにはなっています。

しかし、六年間、空手しかやってなかったツケで、
脈診以外のことは正直よくわかりません。

催眠術で鍛えたリラックストークでごまかしながら、
結果は鍼治療で出すのみ。

真剣勝負ゆえに、実力も格段についてきました。

 当時の一日を時間割風に記述してみると、
一時間目が歯科治療。

二時間目から四時間目が鍼灸治療。午後からの放課後は瞑想と自主勉強。

そんな感じでしょうか。  

自主勉強である東洋医学の中で、
当時、とりわけ興味を深めていったのが、インドの伝承医学である
アーユルヴェーダと、
ヨーロッパの伝統的代替療法・ホメオパシー(同種療法)。

文献は英語で書かれたものが主流なので、
人生初の英語浸けの日々も経験しました。

古き良き日本の秘境で英語漬けというのもヘンな話ではあります

 ほんの少し仕事をして、けっこう勉強もして、
それでも時間にお釣りがありました。

一日の労働時間が十七時間から四時間になったのですから、
当然と言えば当然ですが、単に自由な時間が増えただけではなく、
時間の密度が全然違うのです。

島内随一の絶景、赤ハゲ山に登って、
ただボーっと紺碧の海を見下ろしているような
時間もふんだんにあり、
それが何より心地よかったのを覚えています。

 神経症などに有効な、森田療法理論というのがあります。
人間が本来与えられた生命力を最大限に発揮するために、
自分の立場や環境の中でどうしたらいいかを考えるものです。

例えば、一つのことに没頭しすぎて
燃え尽きてしまったような患者には、
ある期間はとにかく「何もしない時間をつくる」
という方法論もあります。

知夫里島での最初の一年は、
そんな癒し効果もあったのでしょう。

私の心身は、そしておそらく魂までも、
どんどんエネルギーが充満してくるのを感じました。

伝説の漁師  あり余るほどになった気力、体力、
そして時間の使い方として、
私は、相撲に取り組むことにしました。

四島あげての大規模な相撲大会が
あるらしいことも興味をそそりました。

もっとも、島でのリクリエーションというのは
限られていて、バレーボールと
相撲くらいしかありません。

よって、男子と生まれたからには、
有無を言わさず相撲を仕込まれるのです。  

島で最も尊敬される男とは、
村長でも助役でも、都会に出て
一旗揚げた男でもありません。

「相撲の強い男」これに尽きます。

この価値観には、ちょっと痺れました。

(本腰を入れてやってみるか、
そのためには師匠につかないとな)。

 こうして私は、島の伝説の鉄人力士、
道川実さんの門を叩いたのです。

 道川さんは、カナギ漁という伝統漁法の名人です。
箱メガネで海中を覗いて、
二十メートルはあろうかという物干し竿のような
ヤスでアワビやサザエを穫るのです。  

三十数年前の高校総体では、
元横綱輪島関と互角の勝負をしたという
逸話の持ち主でもありました。

その腕力たるや、五十を過ぎようかという当時、
百キロ以上の碇を軽々持ち上げるのです。  

後になって知ったことですが、
四島ある隠岐諸島の中で、
なぜか知夫里島には本格的な力士が極端に少ないのです。

他の三島ではそれぞれ百人を超える力士がいるのですが、
知夫里では道川さんを含めて三人しかいません。

いくら小さな島とは言え、人口比から考えても少なすぎました。

その理由とは、道川さんのあまりにも厳しい稽古と
偏屈ぶりについていける男がいなかったからだとか。

というより、その厳しさが伝説化してしまったために、
最初から弟子入りを志願する者などいなかった、
というのが正解だと思います。

 私の弟子入りを聞いた島の男達
「あの歯医者、正気か?」と、半ば呆れつつも、
その蛮勇を讃え合ってくれたそうです。

幸い私には空手道部での強力な免疫があったので、
確かに厳しい稽古ではありましたが、
十分楽しむことができました。  

私が道川さんを師と仰ぐきっかけとなったのは、
その伝説の数々を知るよりも前、
患者としてやってきた道川さんの
歯の見事さに圧倒されたことにありました。

 かなぎ漁では、箱メガネを前歯でガシッと
噛みしめているためか、
前歯だけは変なすり減り方をしているものの、
臼歯は親知らずまでビッシリ八本生え揃い
、歯質も極めて頑丈で

エナメル質はあくまで硬くて厚く、
少々削っても神経のある象牙質まで届かないので、
麻酔もほとんど要らないほど。

「いやあ、参ったなあ。どうやったら
こんないい歯ができるんですか」

「何も変わったことはやっとらん。

相撲とかなぎ漁をやってきただけや。
毎日旨い魚と自分で作った米を食ってな」
 新鮮な魚介と無農薬の米と野菜。

島の食材は最高です。

さらに銘水百選にも選ばれるほどの
上質の湧き水が二カ所もありました。

「それから、飲み会は気の合わない人間が
いるときには行かんから、不味い酒を飲むこともないわな」
 

なるほど。気の合わない人間とのつきあいを避けて通れば、
ストレスのかかりようもありません。

もっとも私から見れば、島の人たちは
気さくで温かい人ばかり。

こんな人たちでも選んで付き合うところに
道川さんの偏屈ぶりが伺えます。

いずれにしても、天然の水や食物を摂って
ストレスのない生活することが、
健康の極意であることは間違いありません。

 その頑強な歯と身体の持ち主に、
私は特訓を受けたわけです。

ぶつかり稽古を重ねるうちに、
肋骨を疲労骨折したこともありましたが、
空手部時代に比べればなんのその。

と、強がってはみるものの、
島を出るまでの二年半、
私は二回り近く年長の師匠にただの
一度も土を付けることはできせんでした。

今に思えば、相撲の技術だけでなく、
師匠の気骨を学ぶ道場でもあったような気がするのです。

 稽古の後、「隠岐の誉」を酌み交わしながら、
その分厚い掌で私の背中を思いっきり叩いては、
道川さんはよく言ったものでした。

「誰に何を言われようと、自分に柱を持って
我が道をひた走っとりゃあ、老いることなんぞないぞ。泰成!」

健康と幸福の作り方  高齢化率が四十%を越える島というと
、あちこち病気を抱えた老人ばかりの寂しい村という
イメージが浮ぶかもしれませんが、
ここの爺さん婆さんときたら、
おそろしく元気なのです。

道川さんに限らず島民の歯質は概ね良好でした。
若い人の間でも、都会では毎日のように
お目にかかる顎関節症
(口を開けるとコキッと音がする、アレです)
や舌の病気には、ついぞ一度もお目にかかりませんでした。  

四十・五十はまだ洟垂れ。六十代・七十代が主に行政を担い、
八十でやっと一線を退いて「若いモン」の後方支援に
当たるのが、この島の男たちの平均的なライフプランです。

東京の働き盛りのサラリーマンは、
島のご隠居たちよりもずっと生気のない顔を
していたのを思い出しました。

 生涯現役。仕事はもちろん、
夫婦の営みにしてもそんな人たちが多いようです。

道川さんと同じくかつての横綱クラスで、
七十過ぎで現役の漁師だったMさんにも、
健康と若さの秘訣を訪ねたことがあります。

「いい水と飯、それと夜のお勤めじゃなぁ
。今でも三回はしとるけん」
(おおっ。七十代で年三回?
 いや待てよ、これだけ元気な爺さんなら、
月三回ってこともありうるな)

 そこへ、傍らの奥さんが笑いながら切り返しました。
「まあ、しぇんしぇえの前で見栄張って。
先週はそんなにはなかったじゃったろう」
「(先週!?)そ、そうですか」
 年を重ねても元気に仕事や家庭を切り盛りし、
いつまでも睦み合える夫婦でいることは、
果たして特別なことでしょうか(ま、週三回は別として)。

人間には、本来そんな力が備わっているのに、
自然な暮らしから遠ざかるに連れ、
どこかに置き忘れてきたような気がしてなりません。

私が現在につながる医療哲学の柱を立てることができたのは、
島の人たちの暮らしぶりに直に触れることができた
お陰だと思っています。

 ついでに言うと、隠岐的健康生活の果実は、
私の健康観や医療哲学以外にもありましいた。

結婚三年目にして初めての子どもを授かったのです。

 最近は加工食品や冷凍食品なども手にはいるようですが、
少なくとも十数年前までは、食品といえば究極の産地直送。

その土地で採れた旬の素材を余すところなくいただくという食生活は、
マクロビオティックの考え方に似ています。  

ダイエットやスローライフブームに乗って、
今では書店でも「マクロビオティック」の名を冠した
料理本をたくさん見かけるようになりました。

ハリウッドスターの間でも密かなブームとなり、
近年になって逆輸入された感がありますが
、実はれっきとしたメイド・イン・ジャパン。

桜沢如一という思想家が体系化した東洋哲学に
基づく食養法なのです。

中でも「身土不二」という考え方は
島の食生活そのものだと思います、
身体と環境(土)は一元一体であり、
暮らす土地で採れる旬の素材を常食することで、
身体は環境に調和して健康を保てるというもの。

その土地のコンビニで買うものを常食してる
東京の人に元気がないも、当然すぎる成り行きです。

 島の人々は、食べるものだけでなく
娯楽も自前で創造します。

とにかくお祭りがしょっちゅうありました。

私が特に感動したお祭りは、
弘法大師空海の誕生日をお祝いする
三月十五日の御大師祭り。

合計七箇所のお堂で隠岐の郷土料理を
ふるまうというものです。  

ここで陰山特選知夫里島グルメ情報を一節。
魚介ではアオリイカやシイラ、赤ウニ・
青ウニ、馬糞ウニが抜群に旨い。

サザエなどは素人でも簡単に穫れるほど豊富です。

本土ではマンサクと呼ばれることの多いシイラは、
鮮度が落ちるのが早いので、
出荷する分は水揚げするとすぐに血抜きをしますが、
島でなら中トロも味わえます。

これがもう、今風に言うと「ヤバイ」くらいの旨さ。

天然海苔のすまし汁も絶品です。

川からはヤマメやワタリガニ、
里山ではタラの芽などの山菜や
きのこもふんだんに採れました。  

まさに海の幸、川の幸、山の幸の
三役揃い踏み状態に、
お母さん達のてんこもりの愛嬌が
添えられたご馳走の数々。

これまでの私の人生で、
食べる幸せというのを最も味わえたのは
他ならぬ知夫里島だと断言できます。

 御堂では、どこを回っても心づくしの
ご馳走とお酒が朝からもれなく振る舞われます。

「午後からは診療があるので」
と丁重にお酌を辞退しても、
「まあ先生、固いこと言わんと、ちょっとぐらい」
とほだされ…  

かくして三軒目を回る頃には、
島のあちこちの電信柱に括り付けられた拡声器から
全島放送が流れるのでした。

「本日の歯科診療は、陰山先生が酔っぱらっちょるけん、
お休みになりますー」 隠岐古典相撲事件  

話を相撲に戻しましょう。

かの地では、例年「隠岐古典相撲」という
隠岐四島あげての一大イベントがあります。

そのルーツは、隠岐に流された後鳥羽上皇を
何とか元気づけようと開かれたもので、
競技であると同時に神事でもあるそうです。

 この大会では約五百番の対戦があるのですが、
最後の三番を飾るのが、小結・関脇・大関の「役力士」六人。

これに選ばれるには、相撲と酒が強く、
そして島の発展に貢献していることが条件になります

 役力士の対戦には懸賞がかかるのですが、
これがお金ではなく、なんと杉の柱。

土俵を囲む櫓を支える杉の四本柱の内の一本です。
この杉柱が家の前に何本ある
それこそが名誉の尺度であり、
当然、家格も上がってくるようです。

 私に知夫里島を紹介してくれた金岡君も、
後に隠岐島に戻って相撲に復帰し、
数年後には晴れて役力士となりました。

彼には大都市の大学病院で外科医を務めているお兄さんがいて、
子どもの頃から何をやっても叶わなかったといいます。

それが四十近くになって役を取ったことで、
「初めて兄貴を越えたぞ。いやあ、気分良かったなあ」
とのこと。

 役力士とは、島の男たちにとって、そのような存在なのでした。

 この大会に出場するために、
私は師匠について猛特訓を始めたわけですが、
その課程で経験した非常に興味深いエピソードを
ご紹介したいと思います。  

取組みは体重別になっており、
最初の年は九十キロ近くまで体重を増やして頑張ったのですが、
なかなか勝てませんでした。

そこで次の年には六十五キロ以下の軽量級で挑戦してみようと、
一転、ボクサーばりの減量に挑戦したのです。

 絞りに絞って六十八キロまではなんとか漕ぎ着けたものの、
どうしてもあと三キロが落とせません。

そこで、サウナのある本島まで遠征して
目一杯汗を流し、とうとう六十四キロまで絞りきりました。

 「よーし、これで大丈夫!」  
勝利の美酒ならぬ、コップ一杯の水を飲み干した私は、
特に何を考えるでもなく、もう一度先ほどの数字を
確かめるために体重計に乗りました。

すると…。表示画面のデジタル数字は、何と「65.5」。

思わず我が目を疑いました。

 コップ一杯の水で一・五キロの増加です。

普通なら、体重計の誤作動もしくは最初の計量での
数字の読み違いを疑ってみるのがまっとうな反応
かもしれません。

しかし私の口をついて出た独り言は、
「へぇ、こんなこともあるのか」という
能天気なものだったのです。 「

医者がそんないい加減な反応をしてどうするんだ」
とお叱りを受けるかもしれませんが、
「まあ、それもありだろう」としか私には言えません。

何が「それもあり」なのかと言うと、
意識の持ち方で身体は簡単に変わるものだということを、
体験的に知っていたからです。  わかりやすいところでは、

プラシボと呼ばれる偽薬。「これはすごくいい薬なんだ」
と信じて飲めば、ビタミン剤で頭痛が治まることくらい
よくあります。

「気」の力でスプーンを曲げる人もいれば、
心の持ち方を根本から変え、
常に愛や感謝で満たされるようになったことで、
ガンが消滅してしまう人さえいます。

量子力学でいう「人の意識が現実を創造する」
という結論そのものと言えるでしょう

 目先の目標に到達し、
ふっと意識が緩んだところで体重が変わるぐらいは、
どうってことないないのです
(少なくとも、この本の中では)。  

「隠岐古典相撲」は別称「人情相撲」
と呼ばれていて、大会では同じ相手と二回対戦し、
必ず一勝一敗で終わらなければなりません。

遠流の島で不遇をかこつ御鳥羽上皇を慰めるために
始まった行事ですから、
古き良き和みの心が根底にあるのかもしれません。

一回目は真剣勝負。事実上はここで決着がついているのですが、
二回目は最初に負けた側に花を持たせます。

個人の勝負であると同時に、
その力士を出した地域同士の勝負であることから、
後にしこりをのこさないための配慮でもあるのでしょう。  

五百番もの取り組みは、
朝から三十時間ぶっ続けで行われます。
甲子園さながらの地元の名誉もかかった
お祭りですから、力士も観客も朝から杯を
上げてハイになります。

待ち時間に自分の杯に注がれる酒は
もれなく干さなければなりません。

役力士の条件に「酒豪」が必須となるのは当然です。

 それは二年目の大会での出来事でした。

 私の出番が回ってきたのは、
夜中の三時頃を回っていたでしょうか。

相撲に劣らず肝臓もずいぶん鍛え上げてはきたはずでしたが、
朝から飲み続けていればさすがにフラフラです。

 舞台を思わせる高い土俵に上がると、
目もくらむばかりのライトと大声援。

浄めの塩も四方八方から飛んできます。
とにかく立ち会いが勝負。

それだけを念じていました。
「残った!」  
気がついたら相手と一緒に土俵の
下に転げ落ちていました。

軍配は? 「かげやまーっ!」
(おう、勝ったか)

 思う間もなく、物言いが入りました。

審判団が何やら協議をした後、
再度土俵に上がるよう促されます。
(なんだ、取り直しか)  
ムそう思い込んだのが空前絶後の大失敗でした。

「行事は陰山に軍配を上げたが、実は同体で云々」
という審判部長の説明を、
そのディープな隠岐言葉と酔いと興奮のせいで、
私はちゃんと聞き取れていなかったのです。  

実は「いろいろ検討した結果、
やはり軍配通り陰山の勝ちとする」であり、
次の一番は取り直しではなく、
お約束の人情相撲だったのです。

にも関わらず、
「よっしゃー、今度こそ勝ってやる!」

 一回目よりもさらに沸き起こるアドレナリン
に突き動かされ、渾身の力で突進します。

次は勝たせてくれるとものと安心しきっている相手は、
さほど力を入れずにぶつかってきます。

二回目は一瞬で勝負がつきました。
ガッツポーズの陰山。が、なぜかあたりは水を
打ったように静まりかえっているではありませんか。

審判団も砂かぶりの観客も、
しばらくはこの明白な勝負の結果を理解
できないかのような表情に見えました。  

やがて、その重苦しい沈黙の固まりから
小さな虫がはい出てくるように、
ひそひそ声が会場中に広がり、
徐々にボリュームを上げていきました。

「おい・・・」 「何じゃ、ありゃ」
「勝ちよったぞ」 「うわあ、やってくれたなあ」
 どうひいき目に見ても賛辞でないのは明らかです。

はるばる応援に駆けつけてくれた金岡君が顔を紅潮させて一言。

「あほか!二回目は勝ったほうが負けることになっとるって
あれほど言っただろう!」 「えっ、一回目勝ってたの?」
 二十年ぶりの不祥事だったそうです。

古典相撲で二番勝つことは、犯罪に匹敵するほどの掟破り。

私は世話役と村長に連れられて、
相手力士とその村の村長に謝罪に行きました。

最高級の「隠岐の誉」を持って…。
まさに気分は流人です。

「この度はまことに申し訳ないことで、何とお詫びを申し上げていいやら…」
「まあまあ、済んだことやし。よそから来た人だけん」
などというお情けなどなかったのは、言うまでもありません。

張本人が島を去って十年以上を経た今でも、
酒の肴に語り継がれているそうです。

海の卒業式  その年の八月、私は
約二年間の僻遠地医療を卒業することになりました。

契約期間満了に伴い、新たな目標に向かっての
旅立ちではありましたが、知夫里島以外の島民からは
「例の二番勝ちの歯医者、とうとう島におられんようになったらしいな」
と噂されていたとか。
まるで知夫里島から東京への逆島流しです。

 とまれ、それまでとは百八十度異なる価値観で
医療に携わる時間を与えられたおかげで、
一年目が過ぎる頃には、
「東京へ戻ったらあれをしよう、こんなこともやってみよう」
というアイデアと意欲が沸々と湧き出るようになっていました。

自分の人生設計が明瞭になると共に、
健康観に関しての太い柱も形成されました。

医療の原点、健康の基礎はとてもシンプルで
あることに気付いたのです。

それは「自然から学ぶ」こと。
このとてもシンプルなフレーズに集約されるものでした。

 時と場所が変われば価値観も変わります。
物質的な豊かさを追い求めて西欧文明に追従し、
果てしない競争社会に生きる都会の人々と、
伝統的な日本文化を継承し、自然とともに生きている
島の人々とでは、あらゆる面で価値観が違います。

その両方を体験して、今後の都会の方々に健康創造
提供する仕事に携わる医療人が、キーワードにするべきは
『自然から学ぶ』以外にありません。

人間という小宇宙は、大自然の中の小さな一部分。
あらゆる生命の源である自然に立ち戻るという
健康創造の本質に出会い、これから進むべき道が
完全に見えたからには、行動あるのみです
 

毎日が送別会となった最後の一ヶ月もとうとう
終わりを告げました。来居港からフェリーに乗り込むと、
別れのつらさが怒濤のように襲いかかってきます。

見送る顔も見送られる顔も、もはやクシャクシャ。

あまりにも濃密に貼り付いた時間と人情は、
それを引き剥がすのにこんなにも痛みをもたらす
ものなのかと思い知ります。

 ただ、師匠の姿だけはどこにも見当たりません。
一抹の淋しさは拭えませんが、偏屈の固まりだけに、
こういう場面が苦手であることくらい容易に想像が
つくというもの。

「しぇんしぇ、ありがとうね」
「奥さんと赤ちゃん連れて、また遊びに来いよー」
「相撲大会の度に肴にしてやるからな」
 船と港をつなぐテープが一本また一本と千切れていき、
波間に頼りなげに浮かんでいます。

涙と潮風でバリバリになりかけた頬を拳で
ゴシゴシ擦ったその時でした。

沖合から近づいてくる一隻の小型ボートが視界に入ったのは。
 道川さんのボートです。

「頼むよ、師匠。まるで映画のワンシーンじゃ・・・」  
言葉に出来ない熱い思いが込み上げてきます。

赤いハンカチーフを大きく振りながら何かを叫ぶ道川さん。
エンジン音で聞きとることはできませんが、
私の胸にははっきりと響いてきました。

相撲の試合の直前に、私の胸を突っ張りながら
いつも言っていた言葉が。

「泰成、自分の信念に従って、一直線に前に出ろ!」  
伴走は、一時間以上も続いたでしょうか。
やがて思いを断ち切るように、
ボートの舳先が弧を描いてUターンし始めた頃には、
私の乗ったフェリーは、知夫里島よりも境港に近い
海域に達していたような気がします。

生涯最高の卒業式でした。
師匠の縁  あれから十五年。
妊娠を機に実家に戻った妻と、
初めて島を見る子どもと共に、
里帰り気分で訪ねたことはありましたが、
ますます多忙になってくる日常の中で、
知夫里島じゃ健康作りの理想郷としてのイメージのまま、
次第に遠ざかりつつありました。  

平成十七年秋、道川さんはかなぎ漁の途中で
心筋梗塞で倒れ、あっという間に旅立っていかれました。

「お墓参りに行かなくては。道川さんと島の
大自然への恩返しを墓前に誓うために」
 

ボートの上でハンカチを振る師匠の姿を思い出しながら、
その思いを心に刻みました。  

そんなある日、平成十八年の春のことです。
私は人を介して、一人のスーパーウーマンと知り合いました。

かの知夫里島で「なごみの里」という介護施設を経営する
柴田久美子さんです。
かつて、大手ハンバーガーフランチャイズチェーンで
全国一の売上げを誇った実業家でもある柴田さんは、
ある不思議な運命の導きで介護の仕事を始めたといいます。

 ある夜、布団にはいると、
彼女の内部にダイレクトに語りかけるような
「声」が聞こえたのだそうです。

「あ・い」という二字でした。
「あい?」 しばらくしてその二字が「愛」
という意味を持った言葉としてピントが合った時、
何か大いなる存在からのメッセージに違いないと確信。

彼女の価値観は、一夜にして百八十度度変わってしまいました。
ビジネス一辺倒の今までの生活から一転、
人々に無償で愛をふりそそぐような貢生き方をしようと。

 そのメッセージの意味するところを探る内、
「介護」という言葉が浮かんできました。

病院や施設に取り込まれてしまっ
「死」を日常に取り戻して、
畳の上で死を迎えられるような介護の仕事。

その新しいステージとして彼女が選んだのが、
それまで何の縁もなかった知夫里島だったのです。

在宅死亡率が日本一高いことが、その理由でした。

   さっそく村営の老人ホームで働き始めますが、
どうも思い通りの仕事ができません。

「愛」というメッセージをより具現化するため、
一念発起して全くのボランティアからで十人の
お年寄りを預かるようになります。  

後に講演活動もするようになった彼女は、
高齢者と「幸齢者」と呼びます。

 重度の認知症で、自分の排泄物を口にするような
老人を「ただ抱きしめてください」と。

そのようなレベルの人というのは、
魂があちらとこちらを行き来しながら
次第に向こう側に行こうとする、
非常にピュアな存在であって、
抱きしめることで、
逆に癒されるのだそうです。

 そんな愛のこもった介護をボランティアで
実践する柴田さん。

当然、有料で経営している村営のホームとの間には
軋轢が生じるのですが、
一人だけ、盾になってくれた人がいたというのです。

その話を聞いた瞬間、私は鳥肌が立つのを感じました。
「もしかして、道川実さんでは?」
「まあ、道川さんをご存知なんですか?」
「自分の信念に従って、一直線に前に出ろ」
と私に言い続けたその言葉を全身全霊で実践している
柴田さんを、道川さんが放っておくはずがありません。

 師匠が結びつけてくれた不思議な縁を、
私もそのままにしておく訳にはいきません。

十八年五月には、和合医療協会の定期セミナー
「和医和癒塾」で講演していただき、
さらに八月には、協会の仲間とともに知夫里島を
訪ねるツアーも敢行したのです。


次回予告
平成20年8月23日~25日の3日間の男樹の旅。

掟破りの裸祭りあり、人食いエイリアン魚の出没あり、
地元民謡を披露していただき
ねたばればれマジックおよび
アカペラジャズ返しなど盛りだくさんの思い出を
残してくれた最高の旅となりました。
また今後の男樹の旅の予定を告知させていただきます。

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